7月の広布史 大阪大会 記念日

7月の広布史 大阪大会 記念日

 

池田青年室長を不当逮捕
7月17日は「大阪大会記念日」です。1957(昭和32)年のこの日、創価学会にとって重要な節目となった大阪事件を受けて、「大阪大会」が開かれました。
大阪事件は、この年の7月3日、学会勢力の台頭を恐れた当時の検察権力が、池田名誉会長(当時青年室長)を、不当に逮捕・勾留した事件です。同年4月の参院大阪地方区の補欠選挙では、一部の学会員が選挙違反容疑で逮捕されてしまいました。これを、学会に打撃を与える絶好のチャンスと捉えた当時の検察は、逮捕した会員たちを恫喝したり、騙したりして、池田青年室長の指令で選挙違反をしたという虚偽の供述を引き出し、ついに無実の池田室長を逮捕するに至ったのです。

学会の正義を満天下に示す
逮捕された池田室長への取り調べは、深夜まで続く過酷なものでしたが、室長は敢然と無実を主張しました。しかし、「罪を認めなければ、次は戸田会長を逮捕する」という検察の脅迫に、“衰弱した戸田先生を投獄させるようなことがあってはならない”と、師と学会を守るため、いったんは罪を認め、法廷闘争で身の潔白を証明することを決意。逮捕から2週間後の7月17日に、大阪拘置所を出所しました。
その直後の同日午後6時、中之島大阪市中央公会堂において、歴史的な「大阪大会」が開かれました。天の怒りのような凄まじい雷鳴が響き渡る中、池田室長は火をはくように叫びました。「最後は、信心しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!」
この日、池田室長に「戦いはこれからだよ。御本尊様は、すべてわかっていらっしゃる。勝負は裁判だ。裁判長はかならずわかるはずだ」と語った戸田会長。池田室長は裁判で真実を証明することを深く決意し、84回に及ぶ法廷闘争を戦い抜きました。
師の言葉通り、晴れて無罪判決を勝ち取ったのは、それから4年半後の1962(昭和37)年1月25日のことです。この判決によって、学会の正義が満天下に示され、事件は学会の大勝利で終わったのです。
コラム

「出獄と入獄の日に師弟あり」
池田青年室長が逮捕された7月3日午後7時というこの日この時刻は、くしくも、1945(昭和20)年に戸田第二代会長(当時理事長)が出獄したのと同日同時刻でした。
夕張から羽田経由で大阪に向かう池田室長を見送りながら、検察による取り調べの過酷さを身をもって知っていた戸田会長は、池田室長の肩を抱き「死んではならんぞ。大作、もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」と語ったといいます。
また、池田室長が勾留されている間、戸田会長は衰弱した体をおして、みずから大阪地検に室長の不当逮捕への抗議に出向きました。池田名誉会長は「足もともおぼつかぬ憔悴したお体で、手摺にしがみつくようにして階段を上り、大阪地検にも抗議に行かれた。後にその話を聞き、師のありがたさに、私は涙した」と語っています。
のちに池田名誉会長は、7月3日にちなみ「出獄と入獄の日に師弟あり」と詠み、無罪の判決を見届けることなく生涯を終えた恩師を偲びました。

 

広布の全責任を担う”青年部の結成
7月は、男女青年部が結成された月です。1951(昭和26)年の7月11日に男子部が結成、続く7月19日には女子部が結成されました。同年5月3日に「75万世帯の弘教」という誓願を掲げて就任した戸田第二代会長は、広宣流布の遠大な未来を展望し、「広布の全責任を担う組織」として、青年部を結成したのです。
「きょう、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長があらわれるであろう」と、男子部結成式で語った戸田会長の胸中には、会長就任に至るまでの苦闘を共に乗り越え、渾身の薫陶を続けていた池田大作青年(現名誉会長)の姿がありました。池田名誉会長はつづっています。「師の声を、私は会場の一角で、若き生命に刻みつけていた。それは大難を勝ち越えた師と弟子の二人の儀式であったからだ」

青年の熱と力で、新しき世紀を
続く女子部結成式で戸田会長は「学会の女子部員は、一人のこらず幸福になるんですよ」と、誓いも新たな女子部員たちを包み込むように励まし、幸福境涯を開くために「純粋な、強い信心に生き抜く」ことを訴えて、女子部の前途を祝福しました。
戸田会長はさらに、この年の9月、「班長に告ぐ」という一文を発表します。のちに「青年訓」と呼ばれることとなるこの一文は「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」という一節で始まります。
「奮起せよ!青年諸氏よ。戦おうではないか!青年諸氏よ」??烈々たる戸田会長の呼びかけに結果をもって応えたのは、ほかならぬ池田青年でした。
青年部の班長、部隊長、やがては全責任を担う室長として、池田青年はあらゆる戦いを勝利で飾り、戸田会長の誓願である75万世帯の弘教達成への突破口を開きます。75万世帯達成を見届けた翌年の1958(昭和33)年、戸田会長は池田室長をはじめとする青年たちに後事の一切を託し、逝去しました。
広布の一切の責任を担い、師弟不二の闘争の先駆を切る青年部の伝統は、若き日の池田名誉会長の激闘により築かれたものなのです。