アメリカ・サンフランシスコ②

SEIKYO online (聖教新聞社):特集・企画

〈希望航路―池田先生と進む人生旅―〉 アメリカ・サンフランシスコ② 2017年6月13日

広布と社会の中核に
サンフランシスコ・コミュニティー・センターの開所式に参加し、未来の宝を励ます池田先生(1974年3月9日、サンフランシスコ近郊で)。このサンフランシスコ訪問に始まり、北中南米での指導は1カ月以上に及んだ

 サンフランシスコからベイブリッジを渡ると、バークレー市に至る。同市には、ハーバード大学などと並び称される、名門・カリフォルニア大学バークレー校がある。
 1974年(昭和49年)3月8日。3度目のサンフランシスコ訪問の折、池田先生は同校を公式訪問し、ボウカー総長と約1時間にわたって会見。21世紀の大学像などを語り合ったほか、日本とアメリカの友好促進にと、同校に2000冊の図書を贈呈した。
 会見に臨む前、先生はキャンパス内で2人の学生部員と会っている。その一人が、美術大学に通うカーラ・ゲルバウムさん(圏副婦人部長)だった。
 あいさつを済ませ、立ち去ろうと思っていたゲルバウムさん。だが先生は、約30分間、2人と懇談し、激励してくれた。
 その日の感動は、昨日のことのように、ゲルバウムさんの胸に刻まれている。
 彼女たちが大学4年生だったことから、先生は数カ月後に控えた卒業を祝し、「大きな夢を抱いて頑張ってください」と励ましを。さらに「今日、ここに来たのは、皆さんにお会いするためです」と語った。
 そして翌日、「親愛なるカーラさんへ 生涯、幸福で。卒業おめでとう」と英語でしたためたカードを、記念の品と一緒に贈った。
 授業に苦戦していたゲルバウムさんだったが、この先生の激励に奮起し、その年、見事に卒業を果たした。
 その後、美術系の修士号を取得し、競争の激しい美術の世界でキャリアを積んだ。6年前には自宅にスタジオを構え、現代美術家として、日々、カンバスに向かう。
 経済苦や最愛の母の死など、数々の苦難を信仰で乗り越えた。それらは今、“人生のカンバス”を彩る体験に変わった。
 その全ての前進の原動力こそ、1974年の激励だった。
 夫のマーティンさん(副本部長)も、この年、池田先生と出会いを結んだ。3月9日、デイリーシティーに誕生した、サンフランシスコ・コミュニティー・センター(当時)の開所式の折である。
 「先生は後方の扉から勤行会場に入られ、メンバー一人一人を激励されました。目立たぬ場所にいる同志を見逃さない、深い慈愛を感じました」
 マーティンさんは、大学を中退し、皿洗いのアルバイトをして生活していた。心の隅に抱いていた劣等感を、師との出会いが吹き飛ばした。「職場で必要とされる人材になり、自分を信じてくれる先生にお応えしようと決めました」
 その決意を胸に、誰よりも真剣に、アルバイトに精を出した。やがて復学も果たし、82年に大学を卒業。
 国立研究所に職を得て、30年以上働いた。その間、同研究所からはノーベル賞受賞者も誕生している。
 マーティンさんは語る。「大学に戻ることも、これほど名誉な仕事に就くことも、以前は想像できなかった。師匠に誓いを立てた瞬間に、一切の歯車が動き始めました」
 ◇
 コミュニティー・センターの開所式の後、先生は男女青年部の代表40人と懇談の場を持った。
 席上、社会に仏法を開きゆくための指針として、以下の点などを示した。
 教学を深める。
 広宣流布のための出版活動を推進する。
 広布と社会の中核に育つ。
 不退の信心を貫く。
 そして、その場に集ったメンバーを「ウィズダム(英知)グループ」と命名したのである。
 その一人、サンディー・ホウさん(地区副婦人部長)は当時、入会して3年。「グループ結成が発表された瞬間、皆が歓喜に沸きました」
 だが、彼女には疑問もあった。当時、新しい仕事を始めたばかりで、経済苦に悩んでいた。そんな自分でも、「英知」の名にふさわしいのだろうか……。
 彼女の心の雲を払うように、激励を続ける先生。限りない期待を込め、ピアノ演奏を披露していた時である。途中で演奏の手を止めた先生は、青年たちにこう語った。
 ――皆さんも、ピアノを弾ければ素晴らしいが、弾けない人は、そんな余裕もないほど学会活動に打ち込んでいる証拠です。
 しかし、ピアノを弾く余裕を持ち、なおかつ広布の活動にも人一倍、励むことができれば、それも望ましいのではないか――
 こうしてユーモアを交えつつ、先生は「自分にしかできない何かを持ち、自分らしさを備えた一人一人になっていただきたい」と訴えた。
 ホウさんは言う。
 「人の生き方は桜梅桃李であり、さまざまな角度から物事を見る大切さを、先生は教えてくださったのだと思います。人と比べるのではなく、信仰で自分らしさを磨くことで、聡明な人生が送れるのだと実感しました」
 広布に人生をささげて46年。育った国や文化の異なる同志と、共に学会活動に励む中、視野が広がるのを感じた。悩みの種だった仕事では、郡庁舎の職員に採用され、人生もまた大きく開いた。
 ◇  
 ビル・ハーパーさん(支部メンバーケア・アドバイザー)も、ウィズダムグループの一員だ。
 「ピアノ演奏の際の先生の指導を、私は、“仕事も、広布の活動も、全てをやり切ることが重要である”と受け止めました」
 貧しい家庭で育ったハーパーさん。人生の羅針盤となる哲学を求めて、72年に入会。その3週間後、病院で救急救命士としての職を得たことに、初信の功徳を実感した。
 その後は営業職に転じ、全米トップクラスの業績を上げた。95年には金融業の会社を設立。順風満帆だった。
 試練が襲ったのは、2007年。突然の発作で倒れ、1週間、昏睡状態が続いたのである。一命は取り留めたものの、筋力や視力は衰弱し、数年間の休養を余儀なくされた。働くことのできない自分に、心が沈んだ。
 それでも、同志の励ましに支えられ、仕事の再開にこぎ着けた。苦闘を重ね、今では、以前を超える業績を上げるまでになった。
 なぜ、乗り越えることができたのか。
 「1974年の先生の指針の通りに、御書を拝して自らを奮い立たせました。病気のおかげで『我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし』(御書234ページ)との一節を身で読むことができた。宝の体験です」
 ◇
 ウィズダムグループとして結成された友は、91年、グループで最初の総会を開いた。以降も折あるごとに集い、ともどもに誓いを新たにしてきた。
 今、当時の青年たちは、壮年部・婦人部のリーダーに。広布と社会の中核を担う。そして、彼らが開いた広布の航路には、新時代の若人が続く。