奄美の友に感激 勝利の人生誓う

SEIKYO online (聖教新聞社):声の欄

〈声〉 2017年6月11日

 
山口宇部空港では160品種、約1000株のバラが満開に咲き誇った(山口県宇部市)=山口支局・前野和恵通信員
奄美の友に感激 勝利の人生誓う

 東京都練馬区 西村美喜子 (主婦 57歳)
 小説『新・人間革命』「雌伏」の章に故郷、奄美大島の広布史の一端をつづっていただき、感動と感謝の思いでいっぱいです。
 邪悪な宗門から会員を守るため、1979年(昭和54年)4月24日、会長を辞任された池田先生は、たった一人で反転攻勢の闘争を開始されました。
 翌年1月、神奈川文化会館の先生のもとに、「さんふらわあ7」号に乗った四国の同志が駆け付けたことは、あまりにも有名です。
 しかし、その約1カ月後の2月17日に奄美大島地域本部(当時)の女子部86人も師匠を求めて上京し、東京・立川文化会館を訪れたことを初めて知りました。
 草創期から島中で無理解の嵐が吹き荒れる中、折伏して歩いた先輩たちの、逆境に負けない広布の行動を尊敬し、誇りに思います。
 先月、奄美大島の母が92歳の生涯を終え、霊山へ旅立ちました。どんな苦労も題目第一で乗り越えた強い母。友人葬では地元の支部長、支部婦人部長など多くの同志の方々に大変、お世話になり、本当にありがとうございました。
 今、世界広布新時代を迎え、聖教新聞には毎日のように、SGIメンバーの活躍を伝える記事や写真が掲載されています。
 この世界的な広布の潮流も、全ては学会のため、同志のために一人立ち上がられた先生の、不屈の戦いがあってこそと思うと心から感謝の念が湧いてきます。
 私も使命の地・東京で勝利の人生目指し、師の恩に報いていきます。「スットゴレ!」(負けてたまるか!)

医療を通じ貢献 仕事で実証示す

 岡山県備前市 藤田仁 (診療放射線技師 66歳)
 私の入会は1973年(昭和48年)です。戸田先生の指導にあった「信心は一人前、仕事は三人前」をモットーに、活動はもちろん、仕事でも実証を示そうと頑張ってきました。
 このたび、放射線医療を通じて国民の健康福祉に貢献したとして、厚生労働大臣表彰を受けることができました。
 45年前、現在の病院に就職。この間、医療技術の発展は目覚ましく、CT(コンピューター断層撮影)、MRI(磁気共鳴画像装置)等が開発され、診断精度も格段に進歩。フィルム写真からモニターによる診断へと大変革を遂げました。
 私は、これまで5編の研究論文を発表。その実績により、米国のスタンフォード大学に1週間、研修に行くこともできました。
 一時は体調を崩して大変な時期もありましたが、先輩からの温かい激励と、真剣な題目で乗り越えることができました。
 2011年(平成23年)からは県診療放射線技師会の会長を6年間、務めました。その間、東日本大震災に伴う原子炉事故による放射性物質の飛散が起こり、岡山県からも多くの放射線サーベイヤー(測定者)を福島の地に派遣することができ、放射線への不安解消に、多少なりとも貢献できたと考えています。
 これからも、地元で副圏長として頑張るとともに、“妙法の診療放射線技師”として、地域医療に貢献していこうと思います。

青春の原点胸に同志と勇躍前進

 茨城県古河市 水町薫 (主婦 58歳)
 4月に婦人部本部長の任命を受け、身の引き締まる思いで、友好拡大に、同志の激励にと励んでいます。
 間もなく迎える6月20日は、私にとって生涯、忘れられない原点の日です。
 1977年(昭和52年)のこの日、池田先生と学会本部でお会いし、真心の励ましを頂くことができたのです。当時、私は18歳。この時、師弟の原点を築くことができました。
 小説『新・人間革命』「雌伏」の章には、この翌年10月、東京・八王子の創価大学グラウンドで開催された第2回鼓笛隊総会の模様が。私は鼓笛隊の一員として出演しました。
 雨でグラウンドは泥沼状態。白いブーツは長靴のように重くなり、真っすぐ進むのも大変でしたが、雨に濡れながら見守ってくださる師匠を一点に見つめて元気に行進しました。今、思い出しても感動で涙があふれてきます。
 翌年、先生が会長を辞任された年の12月に東京・荒川で行われた第3回総会にも出演。その頃、聖教新聞紙上でもお姿を見ることがなくなっていた先生がスピーチをされ、夢のような出来事でした。青春時代の誓いのままに、同志の皆さんと共に“大いなる希望の行進”をしていく決意です。

義父の遺志継ぎ広宣流布に邁進

 兵庫県加東市 福井千里 (看護師 54歳)
 5月4日、女子部部長をしている長女が、友人への弘教を実らせることができました。以前から仏法対話を重ねてきて、座談会や本部幹部会の中継行事にも一緒に参加していました。
 今年に入り、あらためて家族一丸となり弘教の結実を強盛に祈念。そこには、霊山へと旅立った義父の、孫である長女に対する思いも込められていました。
 義父は1962年(昭和37年)に入会以来、義母と共に地域広布一筋、折伏一筋の人生を貫き、私の父にも弘教を。一家和楽の信心という最高の“財”を家族に残してくれました。
 桜が満開を迎えた4月15日、義父は、私たちや孫、ひ孫たちが唱える題目に包まれ、静かに息を引き取りました。
 長女は、義父の恩に報いるためにも“何としても入会して幸せになってもらいたい”と唱題を重ね、ついに自分の入会記念日でもある5月4日、友人を入会に導くことができたのです。
 私は心の中で義父に「本当にありがとうございました」と尽きせぬ感謝の思いを伝えました。その遺志を継ぎ、はつらつと地域広布にまい進します。