「炎の東京大会」60年 

SEIKYO online (聖教新聞社):特集・企画

「炎の東京大会」60年 師弟凱歌の旭日を昇らせよ 2017年6月21日

 
世界広布の本陣・東京。はるかには、富士の雄姿が映える。さあ、“感激の同志”のスクラムで、師弟凱歌を轟かせよう

 歴史をひもとく時、しばしば民衆勢力を排除しようとする権力の抑圧がある。立正安国へ進んできた創価学会にもまた、幾多の迫害があった。60年前の1957年(昭和32年)7月、権力の魔性が学会に牙を剝いた「大阪事件」。弾圧を堂々と勝ち越えた一つの大きな転機が「炎の東京大会」である。

 降りしきる雨をものともせず、東京、埼玉、神奈川、千葉などから、続々と同志が詰め掛けていた。
 1957年(昭和32年)7月12日の夜、東京・台東区の蔵前の国技館は、2万人の学会員で埋め尽くされた。会場の外にも、傘を差した2万人の友が、怒りに震えていた。
 この日は当初、戸田先生の一般講義が行われる予定だった。それが中止となり、急きょ、「東京大会」が開催されたのである。
 同年7月3日、池田先生が3カ月前の参院選(大阪地方区の補欠選挙)に関する事実無根の容疑で、不当逮捕された。
 戦後、躍進した「創価学会」という民衆勢力の台頭を恐れた、権力による卑劣な迫害であった。
 これを徹底的に糾弾し、学会の正義を宣言したのが、「東京大会」である。
 戸田先生は大会の席上、質問会を行った。
 理解と納得が、前進の力を生む。疑問やしこりを抱えたままでは、空転に陥るからだ。
 学会本部の対応が手ぬるいと訴える友もいた。今後、どう対策を取るのかを尋ねる人もいた。
 一つ一つの質問に、戸田先生は明快に答えつつ、烈々と宣言した。
 「会長になった時から、この体は捨てるつもりでいるんだから何も怖くない」
 「おめおめと、負けてたまるものか!」
 恩師の師子吼に、同志は呼応した。破邪顕正の炎は、ここ東京から、全国へと一気に広がっていったのである。
 塚原孝雄さん(東京・荒川総区、副支部長)は、雨の中、場外の整理役員に就いていた。
 「集ってくる方々の表情が、怒りに満ちていたことを覚えています」
 場外にいた友は、館内の話を聞くことはできなかった。それでも、その場から離れようとしない。
 大会が終わると、場外の友は、会場から出てくる参加者に、誰彼かまわず声を掛け、内容を聞いて回っていた。同志のいちずな姿勢に、塚原さんの心は“断じて魔に負けてなるものか”と奮い立った。
 その後、池田先生が荒川で指揮を執った57年8月の「夏季ブロック指導」で、自身も弘教を実らせたことは、黄金の思い出だ。
 83歳の今も、広布の情熱を燃え上がらせ、意気揚々と対話に歩く。
 「荒川の底力を発揮し、新たな『荒川凱歌の歴史』を築きます」と力を込めた。
 末広良安さん(東京・北総区、区主事)は、録音係を務めた。
 53年(同28年)の入会。先輩から「池田室長(当時)は、すごい人だ」と何度も聞いてきた。
 その室長が無実の罪で投獄された。「館内には“絶対に池田室長を取り返すんだ”との怒りが充満していました」
 戸田先生の叫びに、末広さんの胸は震えた。その響きに、おごり高ぶった権力への激しい怒りと同時に、どこまでも弟子を思う深い慈愛を感じたからだ。
 「“同志を守り、師に応えゆく弟子に成長していこう”と決意しました」
 「東京大会」の感動を胸に、末広さんは北区を駆けてきた。広布の“北極星”と輝く天地に、「喜び多き万歳を」と誓う。
 ――「東京大会」終了後、戸田先生は大阪地検へ乗り込んだ。同行した友に体を支えられながら、地検の階段を上がる。そして、検事正に会うや、猛然と抗議した。
 「私の逮捕が狙いなら、今すぐ私を逮捕しなさい」
 一方で、池田先生への取り調べは過酷を極めていた。検事は、「罪を認めなければ、学会本部を手入れし、戸田会長を逮捕する」と恫喝した。
 恩師の身を案じ、呻吟の果てに、池田先生は裁判で真実を証明することを決断。逮捕から4年半の時を経て、「無罪」判決が出された。
 衰弱する体を押して、師は弟子を守ろうとした。
 弟子は師匠のために身を賭して戦い抜き、「勝利」によって、学会の正義を満天下に示したのである。
 ◆◇◆ 
 東京上野平和講堂に、「東京大会」を顕彰する碑がある。池田先生は、碑文につづっている。
 「万年の創価勝利を決せんは 本陣・東京の責務なり」
 「師弟凱歌の旭日を元初の朝に示さんは 本陣・東京の使命なり」
 これこそ、「世界広布の本陣・東京」の永遠不滅の魂である。

大会に参加して 台東区婦人部主事 湯川藤江さん

●勝負決した正義の師子吼

 「東京大会」の当時、私は入会3年の女子部員。その頃、池田先生が戸田先生から薫陶を受けた“戸田大学”の講義を、共に受けさせていただく機会がありました。
 戸田先生の真正面に池田先生。お二人が話し始めると空気が一変します。私たちは邪魔にならないよう心掛けました。
 池田先生は姿勢を正され、メモは取られず、「ハイッ! ハイッ!」と、戸田先生をじっと見て返事される。“師匠の全てを吸収するぞ”という気迫がみなぎっていました。
 空気がビリビリして、咳を必死にこらえたのを覚えています。師弟の峻厳さを目の当たりにした思いがしました。
 池田先生が逮捕されたと聞いて、“早く出てきてください”と祈りに祈りました。誰の目から見ても無実は明らかなんですから。先生に万が一でも何かあったら、これからどうなってしまうのか……。
 先生の逮捕が学会にとって一番の痛手になる。だから狙われていたのだと思います。戸田先生は弁護士に憤慨しておられました。
 “即刻出せ! そうじゃないと大の体はダメになる”。尋常な怒りではありません。親以上の心です。
 「東京大会」の前日、“蔵前の国技館に集まれ”と連絡が。電話も少なく、隣の隣の家から呼び出してもらうような時代です。電報での連絡も多かった。
 7月12日は、午後から雨が降り続いていました。浅草橋駅から会場の国技館まで、水たまりがいっぱい。
 その日まで、私は国技館を見たことがありませんでした。周囲にテレビはなく、相撲はラジオでしたから。人だかりを追ううちに会場に着きました。
 交差点を曲がると、歓声が「ワーッ!」。国技館が揺れているようでした。
 戸田先生は体調を崩されていましたが、この日はとてもお元気でした。
 壇上で“(池田先生を)早く出せ!”と一喝。戸田先生の正義の師子吼によって、勝負が決したのだと思います。
 「そうだー!」「行くぞー!」と、会場の参加者の気迫もすさまじかった。全員で大阪に乗り込むような勢いでした。
 17日に池田先生は釈放されますが、裁判はずっと続きます。大阪への移動は夜行列車の時もありました。全ての行事を終えてから、先生は列車に乗られる。
 でも先生はいつも、朗らかなんです。「これから大阪に行くんだよ」って。
 時間がたてばたつほど、あの時の思い出は深く、重みを感じます。