〈負けじ魂ここにあり わが生命の学園生〉1 東京校 1968~69年度

SEIKYO online (聖教新聞社):特集・企画

〈負けじ魂ここにあり わが生命の学園生〉1 東京校 1968~69年度 2017年6月22日

諸君のために道を開き、
陰ながら見守っていきます。
それが、私の人生です。
獅子から育った子は皆、獅子です。創価学園から育った人材は、どんな人であっても、栄光輝く使命を担った存在なのです――第2回栄光祭で語る池田先生(1969年7月17日、東京・創価学園の第1グラウンドで)

 今秋、創立50周年を迎える創価学園。新企画「負けじ魂ここにあり――わが生命の学園生」では、創立者・池田先生と学園生が一体で刻んできた、誉れの歴史を紹介する。第1回は、東京・創価学園小平市)の開校からの2年間(1968~69年度)に迫る。

 真新しい白亜の校舎が立つキャンパスに、生徒や保護者が続々と集まって来た。1968年4月8日、創価中学・高校の「第1回入学式」である。
 武蔵野の面影を残す自然豊かな天地。校舎は、たくさんの木々に囲まれている。
 「木はできるだけ切らないで残しておこう」。それが先生の意向だった。まだ細い若木も多く、伸びゆく学園の未来を象徴するかのようである。
 ――66年に建設委員会が立ち上がる以前から、先生は一人、学校の設立について熟慮してきた。
 香峯子夫人を伴って、小平の候補地を視察したのは、60年4月5日である。
 ①武蔵野の大地にある②富士が見える③近くに清らかな水の流れがある④都心から車で1時間ほどの距離にある――そうした条件を全て満たすこの地に、先生は学園を建てることを決めた。
 本年の4月5日、先生ご夫妻は学園を訪問。半世紀の時を経て、世界が仰ぎ見る“大樹”となった発展の様子を心から祝福した。
 ◇ 
 入学式当日。“学校運営は、校長や理事長らが中心”と考え、式典の出席を見合わせた先生は、終了後に学園を訪れて生徒らを激励した。
 校舎とグラウンドを結ぶ「栄光橋」の渡り初めにも。玉川上水に架かる橋の上で、先生は1期生に語った。
 「創価学園は、周囲を、彼方の山と川、武蔵野の平野と木々の緑に囲まれている。山は王者であり、川は純粋な精神である。武蔵野の平野は限りない希望を、そして、緑は潤いのある人生を表している。どうか、この栄光橋を渡る時、自分も栄光の人生を渡っているとの確信に燃え、進んでほしい」
 ここに、未来に続く学園の歴史の一ページが開かれたのである。

堅固な礎を築け

 1期生として入学したのは、高校321人、中学217人。先生は、たびたび学園に足を運んでは、生徒と交流する機会をつくった。時には一緒に卓球やテニスを行い、かき氷やおしるこを食べたこともある。
 68年12月21日には、寮の会食会に参加。寮生の質問に答えた。
 「将来、南アフリカの人権問題に関する仕事がしたいと思っています」と言ったのは、木村明彦さん(高校1期)。「そのためには、法律、農業、経済など、どういった分野を学ぶべきでしょうか」と尋ねた。
 「今は語学を勉強しなさい」。先生の答えは明快だった。
 「何事も順序があります。東京駅の次は、有楽町駅でしょう。そのように目的地に向かうには、次の駅、また、その次の駅と順序があります」
 そう言うと、突然、英語で問い掛けた。「Can you speak English?(英語は話せる?)」
 思わず口ごもる木村さん。「No, I......」
 理想に燃える学園生に、先生は土台の重要性を訴えた。
 “語学は基礎です。大きな建物を造るには、地中を深く掘り、堅い堅い礎を築かなくてはいけない。それがあれば、どんなに高い建物でも建てられる。その土台をつくるのが、今の若い時代なのです”
 そうだ! 自身の礎はもちろん、学園の礎を築くためにも学び抜こう!
 1期生は奮い立った。
 卒業後、木村さんは創価大学の経済学部を経て商社に。後に独立し、広告会社を設立。社名を、スワヒリ語で「ありがとう」を意味する「アサンテ」とした。
 「直接、アフリカに携わる仕事はできていませんが」と苦笑するが、胸中には“誓いの一場面”が今も消えることなく輝いている。

父親の代わりに

 「学園生は、わが子以上に大事である」。それが先生の心である。
 69年4月8日の第2回入学式。会場に一人、浮かない表情で参加している学園生がいた。
 奄美大島から上京した新納一彦さん(高校2期)。学園の合格発表の日、交通事故で父を亡くしていたのだ。
 それを聞いた先生は新納さんを呼び寄せ、優しく包み込んだ。
 「私を父親だと思って、困ったことがあったら何でも言いなさい。悲しいかもしれないが、この学園でうんと勉強して立派になるんだ。それが親孝行だよ」
 その後も、学園に行くたびに、新納さんをはじめ家族を亡くした生徒を励まし続けた。
 「親というのは、いつかは亡くなるものなんだ。誰もがそうした悲しみを乗り越えていく。君たちは、他の人よりもその山を一つ先んじて越えているんだよ」
 「深い悲しみにあった人ほど、偉大な指導者になれるのです」
 新納さんは振り返る。
 「初めは、ふさぎ込んで、トイレで一人、泣いたこともありました。でも、先生の激励を思い出して頑張りました。支えてくれた学友たちと切磋琢磨した学園時代は、一生の宝です。送り出してくれた両親に感謝は尽きません」
 現在は、地元・奄美に戻り、船会社に勤務。悩んでいる人、困っている人の力になりたいと、地域に励ましの輪を広げている。

21世紀に会おう

 地方出身の生徒たちのために、夏休み前に何か思い出をつくってあげたい――。
 先生の提案で始まった“夏祭り”。それは「栄光祭」と命名された。
 「みんなと一緒に見てもいいかな」。その第2回が行われた69年7月17日、先生はグラウンドに到着すると、真っすぐに生徒席へ。近くにいた学園生に声を掛け、名前や出身地などを聞いて激励した。
 舞台では、学園生による民謡大会や、パントマイム、創作劇などが披露された。その一つ一つに誰よりも早く拍手を送る先生。皆で学園寮歌「草木は萌ゆる」を歌い終えると、学園生たちに呼び掛けた。
 「21世紀の初めには、この1期生、2期生から、社長や重役、ジャーナリスト、あるいは、科学者、芸術家、医師など、あらゆる世界で、立派に活躍する人がたくさん出ていると、私は信じます」
 「その21世紀に入った2001年の7月17日に、ここにいる先生方と、1000人の先駆の創価学園生全員が、集い合おうではないか」
 「私も、2001年を楽しみにして、諸君のために道を開き、陰ながら諸君を見守っていきます。それが、私の最大の喜びであるし、私の人生です」
 先生は終了後もグラウンドに残り、退場する学園生を、手を振って見送った。
 “2001年7月17日、成長した姿で創立者のもとへ”――この思いは、後に続く多くの学園生たちにとっても、大きな指標となっていく。