〈負けじ魂ここにあり わが生命の学園生〉3 関西校 1973~75年度 2017年8月22日

〈負けじ魂ここにあり わが生命の学園生〉3 関西校 1973~75年度 2017年8月22日

他人の不幸のうえに自分の
幸福を築くことはしない。
この信条を培ってほしい。
ようこそ創価学園へ!――全国各地から集った1期生との記念撮影に臨む池田先生(1973年4月11日、大阪・交野市の創価女子学園〈当時〉で)

 古来、桜の名所として知られ、『新古今和歌集』や『枕草子』などにも登場する大阪の交野市。
 創立者・池田先生は、この詩情豊かな「ロマンの里」に、女子校を建設することを決めた。
 設立発表は、東京の創価中学・高校の開校から1年後となる1969年7月だった。
 縁深き関西の天地に、いつの日か創価の学舎をつくりたいと、人知れず構想を膨らませていた先生。「女子校をはじめとする教育事業に、残る半生、全魂をこめ、心血をそそいで応援してまいる考えです」――73年1月の落成式に寄せたメッセージには、率直な真情をつづっている。

未来の平和への道

 陽光が差し込む体育館に、真新しい紺地のセーラー服を着た乙女たちが入って来る。
 先生の出席のもと、創価女子中学・高校(当時)の第1回入学式が行われたのは、同年の4月11日である。
 誉れの1期生となったのは、高校生239人、中学生148人。スピーチに立った先生は、緊張と決意の表情を浮かべる友を見つめながら、開口一番、こう呼び掛けた。
 「今朝、妻に『うちは男の子しかいないから、全員、娘にしたいな』って言ったら、妻も『そうしたいですね』って言うんですよ」
 絶妙なユーモアに、歓声と笑みが広がる。
 和やかな雰囲気の中、先生は「伝統・平和・躾・教養・青春」の五項目について言及し、「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない」との言葉を贈った。
 「この心をもち、実践していったならば、まれにみる麗しい平和な学園が実現するでありましょう」「地球は大きく、この学園は、その地球から見るならば、ケシつぶほどのものであるかもしれない。しかし、未来の平和への道を考えるとき、皆さんのこれからの実践は、やがて地球を覆うにたる力をもつはずである、と私は確信したい」
 これが、学園の“平和教育の永遠の指針”となった。
 式典を終えると、先生は生徒の輪の中へ。「良識・健康・希望」のモットーの碑の除幕式や、入学記念撮影会に参加し、卓球場・テニスコート開きでは、運動着に着替え、一緒に汗を流した。
 創立者との絆は、開校初日から固く強く結ばれていった。

一流の女性に

 この年の秋には、第1回「希望祭」が行われた(9月14日)。
 学園生の創意工夫があふれたバザーや展示。先生が来賓・保護者らと見守ったメイン行事“交野秋の夕べ”では、童謡メドレー、舞踊、モダンダンス、授業風景を模したコントなどが次々と披露され、拍手と笑いが絶えなかった。
 終盤には、いかなる苦難にも屈しない父子の姿を描いた創作劇「最後の一句」の上演も。迫真の演技に、場内は感動の渦に包まれた。
 劇で主人公の弟役を演じた山口好美さん(中学1期)。行事を終え、制服に着替えて校舎の外に出ると、ばったり先生と出会った。
 先生は山口さんらを野点の席に招いて言った。
 「劇、上手だったね」
 思わぬ一言に、山口さんは驚いた。カツラや化粧をした衣装姿は、観賞に来た母親ですら、わが子だと見分けがつかなかったからだ。
 さらに先生は、「一流の女性になるためには、お茶の作法も覚えておくんだよ」と、自ら礼儀やマナーを教えた。
 「一人一人を大切に育もうとされる先生の振る舞いは、今もこの目に焼き付いて離れません」と山口さん。卒業後は保育士として働きながら、学園生となった2人の子を育て上げた。同窓の誇りと原点を胸に、家族そろって感謝の道を歩む。

良識・健康・希望

 開校以来、先生は多忙な合間を縫って、関西校に何度も足を運んだ。
 中高の全学年がそろった3年目の75年4月。第3次訪中へ旅立つ直前にも、学園を訪れている。生徒たちに会いたいと、大阪から中国に出発することにしたからである。
 13日の記念撮影会。新入生にとっては、先生をキャンパスに迎える待望の機会となった。
 先生は、モットーである「良識・健康・希望」の意義を語った。
 「良識」――即、聡明であり、人間として人間らしく生きる、最も基本の姿である。
 「健康」――一生を生きていく上で、最も基礎となるものである。
 「希望」――何があろうと希望を抱いて前に進み、自分自身に挑戦していくことである、と。
 武内秀子さん(高校3期)は、中学3期の妹・中下愛子さんと共に参加した。両親は、家計が厳しい中、姉妹の同時入学を後押ししてくれた。
 「学園に入って本当に良かったと、心から思えた瞬間でした。生涯、創立者の“娘”として、三モットーを胸に生き抜こうと決意しました。それが、最大の親孝行になると思ったんです」
 95年に父が急逝した際は、妹と共に母を支え、大阪にある実家の運送業の手伝いを。当時住んでいた埼玉を離れる決断となったが、夫や義母の応援もあり、従業員やその家族の生活を守ることを最優先にした。
 「人のために尽くす人生でありたい。それが学園で創立者から教わった生き方です」
 武内さんは現在、母の後を継ぎ、会社の代表取締役に就任。2人の息子を学園、創価大学に送り出し、夫婦そろって地域貢献にも励んでいる。

タンポポのごとく

 76年3月。晴れの第1回卒業式で、先生は期待を込めて語った。
 ――進学する人もいれば、就職する人もいる。あるいは1年や2年、大学進学への準備を余儀なくされる人もいる。どのような道であっても、努力さえすれば、幸せになることは間違いない。新しい人生へ明るく、そして焦らず、勇気をもって前進していってください――と。
 1期生の中には、浪人するメンバーもいた。
 直後の4月、先生は彼女たちと懇談の機会をもつ。その際、全員で励まし合えるよう、グループ名を付けてはどうかと提案した。
 皆で考えた名称は「たんぽぽグループ」。
 それを聞いた先生は喜び、若き日に心に刻んだ「踏まれても 踏まれても なお咲く タンポポの笑顔かな」との詩を紹介し、一人一人の勝利と成長を念願した。
 翌年、「たんぽぽグループ」の友は、全員が大学合格を果たす。
 その一人、中内規子さん(高校1期)は、懇談の席上、小学校の教員を目指していることを伝えた。すると、先生は優しく語り掛けた。
 「子どもたちを無条件で好きになることです。子どもの心は寒暖計のように敏感で、その人の心がすぐに分かるんだ。誰からも立派な先生だと言われるようになりなさい。きっとあなたに合っているよ」
 中内さんは、大学卒業後、先生との誓いを果たし、教職の世界へ。小学校の校長となって、今年で10年目を迎えた。
 「苦しい時は“タンポポの詩”を思い返して頑張りました。教師として心掛けてきたことは、自分の価値観を無理に押し付けないことです。子どもや保護者の多様な考えにも耳を傾け、その思いを受け止めるように努力しています。そこに“他人の不幸のうえに自分の幸福を築かない道”があると思うからです」
 草創期、先生が示した信条は、時代と共に、卒業生と共に、一段と輝きを増している。

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