〈教学〉 11月度座談会拝読御書 日妙聖人御書 2017年10月31日

〈教学〉 11月度座談会拝読御書 日妙聖人御書 2017年10月31日

御書全集1215ページ18行目~1216ページ1行目
編年体御書493ページ7行目~8行目
師弟不二」こそ成仏の直道
妙法を持つ人は仏と等しい大境涯に
 
本抄について

 本抄は、日蓮大聖人が文永9年(1272年)5月、佐渡で認められ、乙御前の母(日妙聖人)に与えられたお手紙です。
 本抄は、鎌倉に住んでいた乙御前の母が配流の地・佐渡へ大聖人をお訪ねした、その志をたたえています。乙御前の母は夫と離別し、幼い娘を育てながら純粋な信心を貫きました。
 本抄御執筆の当時は、前年9月の竜の口の法難から佐渡流罪という、大聖人門下にとって厳しい試練の渦中にありました。門下には所領の没収や鎌倉からの追放、投獄などの迫害が及んでいたのです。こうしたなかで乙御前の母は、鎌倉から、はるばる佐渡にまで大聖人をお訪ねしました。
 大聖人は、乙御前の母の求道の姿勢をたたえて、「日本第一の法華経の行者の女人」(御書1217ページ)と仰せになり、「日妙聖人」という最高の名を贈られています。
 本抄では、末法の凡夫は妙法を持つことで仏と等しい功徳を得ることができると教えられています。今回、拝読するのは、この部分の仰せです。

拝読御文

 我等具縛の凡夫 忽に教主釈尊と功徳ひとし彼の功徳を全体うけとる故なり、経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり

受持即観心

 日蓮大聖人が出現される以前は、経典に説かれた法理をもとに瞑想して自身の心を見つめていく「観心」が成仏のための修行でした。
 大聖人が、仏法における正師として重んじられたのが天台大師です。
 天台大師は、自身の心を深く見つめていくことによって、“自らの心に十界が具わり、自己の一瞬の心(一念)に三千の諸法という森羅万象が具わること”を覚知する観心の修行を説きました。
 しかし、これは極めて困難な修行であり、覚りに到達する人はまれでした。これに対して、大聖人の仏法では南無妙法蓮華経の受持によって、誰もが自身に具わる十界を見ることができます。つまり、自身に仏界が具わることを知り、現実に仏界を現すことができるのです。このことを受持即観心といいます。
 大聖人は「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(御書246ページ)と仰せです。釈尊が成仏するために積んだ膨大な修行(因行)と、修行によって得たさまざまな功徳(果徳)の全てが、成仏の根本法である「妙法蓮華経の五字」すなわち南無妙法蓮華経に具わるということです。
 大聖人は、この南無妙法蓮華経を私たちの成仏のための御本尊として顕されました。
 末法衆生は、この御本尊を受持することによって、釈尊が修行で積んだ仏因の功徳と仏果の功徳の全てを自身に譲り受けることができるのです。

以信得入

 日蓮大聖人は、凡夫が妙法を持てば、たちまちに仏と等しい功徳を得られると教えられています。ここで大切になるのは、妙法を持つ人の信心です。
 これは仏道修行の基本である「信行学」の「信」に当たります。この「信」こそ私たちが仏の境涯に入るための根本です。
 法華経には、釈尊の弟子の中で智慧第一といわれた舎利弗も、ただ「信受」することによってのみ、法華経に説かれた法理を体得できたと説かれています。信受とは、仏の教えを信じて受け入れることです。法華経譬喩品には「汝舎利弗すら 尚此の経に於いては 信を以て入ることを得たり」(法華経197ページ)と説かれます。これを「以信得入」といいます。
 仏の覚った偉大な智慧・境涯を自身のものとしていく道は、ただこの「信」による以外にありません。仏の教えを信じて受け入れていった時に、仏法で説く生命の法理の正しさを理解していくことができるのです。
 末法の御本仏・大聖人は、御自身が覚られた宇宙根源の法である南無妙法蓮華経を御本尊として図顕されました。
 大聖人が、末法の一切衆生のために、御自身の仏の生命をそのまま顕されたのが、御本尊です。
 この御本尊を、私たちが仏の境涯を開くための唯一の信仰の対象として深く信ずることこそ、大聖人の仏法を修行する根本にほかなりません。

「如我等無異」

 仏の目的は、一切衆生を自身(仏)と等しい境地に導くことにあります。
 その願いが、法華経方便品に、「如我等無異」(我が如く等しくして異なること無からしめん=法華経130ページ)と述べられています。
 自身を妙法そのものであると覚知した仏は、同時に、あらゆる衆生が本来、妙法そのものであると覚ります。そして、自らが妙法そのものであることを知らずに苦悩の中にいる人々に仏は同苦し、限りない慈しみの心を起こすのです。
 無量の智慧と勇気、そして福徳、慈悲にあふれる仏の生命。全ての人に、その生命を、自身と同じように開かせたい――それが、仏のただ一つの願いなのです。
 法華経寿量品の自我偈には、こう説かれます。「私(釈尊)は、つねにこのことを念じている。すなわち、どのようにすれば、衆生を、無上の道に入らせ、速やかに仏身を成就させることができるだろうか、と」(毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身=同493ページ)
 末法の御本仏である日蓮大聖人も、一切衆生を自身と同じ境涯へ高めようと、瞬時も休むことのない広布の闘争を貫かれました。
 弟子の私たちが、この心を受け継いで、どこまでも広布に前進していく時、仏の願いである万人成仏を現実のものとしていくことができるのです。

池田先生の指針から 師と共に広布の誓願を貫こう

 本抄で、「『如我等無異』等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり」と仰せです。
 「如我等無異」こそ、仏の願いが込められた法華経の真髄の一節であり、法華経が「何のために」説かれたのかを明確に示す珠玉の一句です。
 方便品第二に、「一切の衆をして 我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき」(法華経130ページ)とあります。すべての衆生に、仏と同じ境涯を得させようという大慈大悲です。
 (中略)
 衆生がいかに仏道修行を積み重ねても、「釈尊と斉等なり」とならなければ、仏法の目的を成就したことにはならない。「斉等」とは、両字とも「ひとしい」という意味です。「釈尊と平等」なのです。
 大聖人は本抄で、「師子王の子は師子王となる」、法華経の行者は「教主釈尊のごとく法王とならん」と仰せです。
 仏が「吾子」として、一切衆生を「仏子」と呼ぶのも、「仏」にするためです。仏子がいつまでも「子」のままでは、親である「仏」は、永遠に使命を全うすることはできません。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第19巻)
 ◇ ◆ ◇ 
 「凡夫の忽に仏となる」かどうかは、要するに、信心があるかどうかという一点で決まります。
 一念三千の法理の柱は十界互具であり、なかんずく人界所具の仏界です。しかし、理論上は、皆が仏であるというのと、実際に、自分の中にある仏の生命を涌現するのとは天地雲泥の差です。ここに「師弟不二」の重要性があります。
 師匠は何よりも、弟子をはじめ一切衆生の幸福を願い、万人成仏の大願に生き抜きます。
 しかし、いくらその慈悲の陽光を浴びても、弟子が同じ誓願の心を起こさなければ、真の意味で、仏に成る道に入ることはできません。一人ひとりが自分から胸中の可能性を開かない限り、幸福を自ら得ることはできないからです。(中略)
 弟子の一人ひとりが、師匠と同じ誓願に立ち、同じ心で、同じ生き方を力強く始めていく。ここに「日蓮と同意」(御書1360ページ)の生き方があります。「師弟不二」の実践があります。(同)

参考文献

 ○…『勝利の経典「御書」に学ぶ』第19巻(聖教新聞社