〈信仰体験 ブラボーわが人生〉第43回 白銀の冬景色 2018年3月3日

〈信仰体験 ブラボーわが人生〉第43回 白銀の冬景色 2018年3月3日

「秋田はよお、雪が降れば燃えんのさ」

 【秋田県鹿角市】音もなく雪が降る。凍てつく白銀の冬景色。秋田の雪は、2月が最も厳しいという。試練の雪は、草創の母にも降り積もる。十和田支部の初代婦人部長だった、神尾アヤさん(96)=花輪支部、県婦人部主事。厳寒を嘆かず、正義の旗を掲げ続けた「秋田の宝」だ。雪を踏みしめ、会いに行った。

 秋田はよお、雪が降れば燃えんのさ。んだんだ。宗門事件で荒れたけど、必ず勝つってのがあったもの。だから池田先生は抱きかかえてくれたんだべなあ。それこそ革靴でさ、街頭座談会を9回もさ。
 「人間革命の歌」は7月に書かれたんだよな。「吹雪に胸はり/いざや征け」。池田先生は、冬の厳しさをご存じでねえすか。苦労苦難があってもさ、池田先生が分かってくれてると思うからさ、力が出んのよ。それが秋田でねえのすか?
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 池田先生とお話ししたことは、一言一句忘れねえ。昭和36年(1961年)2月の十和田支部結成大会。あの日は、さらさらした雪でねえ。ぬれ雪だ。
 先生の車がさ、会場の近くまで来て、わだちにはまったんだと。先生はみんなと車を押したのさ。革靴に雪が染みたんだ。その足で、参加してくれてさ。冷たかったべなあ。
 次の日だ。池田先生とお昼をご一緒したのよ。駅前の食堂で、先生となぜか2人残ってさ。駅までは50メートルの雪道だ。革靴がぬれては大変でしょ。長靴を準備しとけばなあ。転ばないようにさ、先生の手を取って「こっちこっち」って。そしたらさ、先生が「すっかりお友達になりましたね」って。
 それから先生は会うたんびに、声掛けてくれるんだよね。「必ず家に行くからね」って指切りげんまんしてくれたもの。
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 秋田の雪は、下からも吹くのさ。地吹雪の中を父ちゃん(夫・久男さん)と折伏に歩いたものね。目開けてらんねえの。不当解雇された裁判に勝ってもさ、「月月・日日につより給へ」(御書1190ページ)だからさ。
 父ちゃんは尾去沢鉱山に勤めてたのよ。長屋暮らしだもの。勤行始まれば、みんな見に来るって。「生活改善座談会」と銘打って、学会歌やって体験語ったの。お風呂も共同だからさ、「帰り、うちさ寄れ」と誘ったのよ。4畳半と6畳きり。いっぱい来たよ。鉱山で明日の命が分からないから、みんな信心したもんだ。
 事故が続いてたからさ。課長さんとこ行って、「原因を知ってます」ってさ。「あんた知ってるの?」「はい。その話に来ました」「まてまて、みんなに聞かせっから」
 次の日、事務所のテーブルと椅子さ寄せて、50人ぐれえいたな。「この事故の原因は」から始まって、御書を引いたんだ。そしたら課長さんがよ、「その話ですか。それなら結構です」。私が帰った後、みんなで大笑いしたらしいのよ。
 それから風呂行っても、みんなさーっと避けるしよ。町歩けば、ひそひそ聞こえるしよ。労働課の人に「信心やめてくれ」って言われてさ。組合から除名されたもんね。だから母親が「尾去沢出て、他さ行くか」って心配すんだ。「行かね。今行ったら、残った人がかわいそうだ。行かねえよ」
 みんな団結したよ。人を救うんだもの。正義はこれしかねえもの。夕張(炭労事件)の後だから、こっちにも来たかと思ったよな。「行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る」(同916ページ)。御書の通りだ。
 地吹雪をどんどん歩いたよ。上って下ってさ、まつ毛が凍ってさ。地吹雪が言うんだものね。信心を持つのは厳しいよってさ。
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 ここは雪深い所だ。淡雪、綿雪、毎日違う景色だもの。秋田の雪は2月が一番厳しいよ。でもさ、去年ほど悲しい雪はなかったな。
 たった1人の娘がいたのさ。子どもできなくてさ、もらった子が、むっ子(睦子さん)なの。去年の2月にさ、68歳で亡くなった。
 優しい子だったもの。むっ子が小学生の時、作文書いたのさ。『私のお母さん』っていう題でさ。学校に張られてたんだよなあ。見に行ったっけさ。
 『私のお母さんは、いいお母さんです。いっぺんもたたかれたことがありません。でもお父さんとけんかすると、お父さんは頭を下げて聞いております。お父さん、もうちょっと強くなって』
 家族だなあと思ってさ。うれしかったなあ。嫁っ子になってよ。男の子3人産んで、幸せそうだった。
 突然だもの。明日入院するって、むっ子から電話きたの。心配するなって。それが最後だ。つらいよね。写真見て、「おらを残して逝かんでけれ」。何もかんも雪に埋まった気がしてよ。家さ閉じこもったな。
 思い出したんだ。父ちゃんが死んだ年によ、本部幹部会があったのさ。そこにむっ子と参加させてもらってさ。会合中にさ、池田先生が声掛けてくれたのよ。「どこから来たの?」「秋田です」。先生は私にさ、指切りげんまんのジェスチャーをしてくれたのよ。むっ子も、うれしそうな顔してた。
 吹雪に胸張るんだ。ふぶけばふぶくほど、池田先生が心に出てくんだもの。そういう人生を歩いてきたんだ。
 あの子は宝物を持って逝ったんだ。池田先生との思い出は、来世につながるからさ。積んだ題目もそのまま持って生まれてくんだ。
 悲しさが消えてったのよ。毎朝、写真に言ってんの。「早く出てこいよ。みんな待ってんだよ」
 気付けば、外も雪解けの春を迎えてたっけ。「冬は必ず春となる」(同1253ページ)を実感したよなあ。雪解け水が流れてんだもの。その音はさ、厳しい冬を越えた人だけが聞ける、春の響きでねえすか。
 そうだよなあ、むっ子。

後記

 一緒に勤行をさせてもらった。始まる前、神尾さんは御本尊と短い話をした。
 「ありがたき御本尊様にお会いでき、唱えがたきお題目を唱え、世界一の大指導者・池田先生を師匠に仰いで、学会家族に囲まれて、こんな幸せはありません」
 1954年(昭和29年)の入会。57年の第1回秋田支部総会で、池田青年室長(当時)と出会う。帰りの列車と貸し切りバスが一緒だった。「人生の並木路」を合唱した。
 病は一度きり。42歳、腹部にしこりができた。尾去沢の病院で摘出すると、結核菌が詰まっていた。「もし菌が散ってたら命はなかった」と説明された。「お金が一番ない時に、全ての病魔を退散させたのさ」
 鹿角は、第2次宗門事件で脱会者を1人も出さなかった地。圧倒的な聖教拡大を成し遂げ、勝った。歓喜の熱が、師を呼んだ。94年(平成6年)8月、池田先生は鹿角平和会館を訪れた。
 神尾さんは歩く姿で折伏ができる。皆が「あの人のように年を重ねたい」と。折伏の雄・秋田。雪景色の静けさと冷たさの中に、燃えるような輝きが増す。(天)