〈教学〉 5月度座談会拝読御書 椎地四郎殿御書 2018年4月30日

〈教学〉 5月度座談会拝読御書 椎地四郎殿御書 2018年4月30日

御書全集 1448ページ2行目~4行目
編年体御書178ページ2行目~4行目
大難こそ法華経の行者の証し
聡明な生き方で苦難を宿命転換の好機に
 
本抄について

 本抄は、日蓮大聖人が門下の椎地四郎に与えられたお手紙です。
 御執筆は弘長元年(1261年)4月と伝えられていますが、諸説があり明らかではありません。
 椎地四郎に与えられた御書は本抄のみであり、どういう人物であったか詳しくは分かりませんが、本抄を拝すると、深く仏法を求め、地道で清らかな信心を貫いていたことがうかがえます。
 本抄では、大難を受けることは、法華経の行者の証しであると述べられたあと、法華経を一句でも説き語る人は、「如来の使」であり、椎地四郎自身も、その最高に尊い使命に生きる人であると称賛されています。
 また、法華経の一文一句をも聞いて魂に染め抜く人は、「妙法蓮華経の船」に乗って、苦悩に満ちた生死の大海を越え成仏を果たす人であると励まされています。

拝読御文

 末法には法華経の行者必ず出来すべし、但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし、火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや、大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや

難を乗り越える信心

 「此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり」(御書1136ページ)等、日蓮大聖人は、御書の随所で“法華経を持てば難に遭う”と仰せです。
 では、正しい法(正法)を持った人が、なぜ難に遭うのでしょうか。
 正法を信じ行じて、成仏の境涯を目指すということは、自身の生命を根底から変革させていくことです。
 どんな変革にあってもそうですが、仏道修行においても、その変革を起こさせまいとする働きが、自身の生命自体や、あるいは周囲の人間関係の中に生じます。ちょうど、船が進む時に、抵抗で波が起こるようなものです。
 成仏を目指す仏道修行の途上に起こる、このような障害に「三障四魔」があります。
 また、法華経には、末法濁悪の世に法華経を弘める「法華経の行者」に対して「三類の強敵」が現れ、迫害することが説かれています。これは、釈尊入滅後の悪世において、一切衆生の成仏を願って法華経広宣流布しようとする実践のあるところに起こってくる迫害です。
 釈尊も、さまざまに起こる心の迷いを魔の働きであると見抜いて覚りを得ました。魔を打ち破るものは、何事にも紛動されない強い信心です。
 大聖人は「しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(同1091ページ)と仰せです。
 三障四魔をはじめとする難に直面した時こそ、成仏への大きな前進の時と確信して、むしろこれを喜ぶ“賢者の信心”で乗り越えていくことが大切なのです。

 

「現世安隠」

 法華経薬草喩品第5には「現世安隠、後生善処」(法華経244ページ)と説かれています。法華経を信受すれば、現世は安らかであり、来世には善い所に生まれるとの意味です。
 「現世安隠」と述べられているにもかかわらず、法華経を持つ人に必ず難が競い起こるというのは、どういうことなのでしょうか。
 日蓮仏法における「安穏」とは、生活、人生の上で波風が立たない平穏な状態をいうのではありません。
 一般的にも、生活、人生において苦悩や困難がないということはあり得ません。
 一生成仏を目指す仏道修行の過程には、三障四魔、三類の強敵をはじめとする難が必ず競い起こります。「よからんは不思議わるからんは一定とをもへ」(御書1190ページ)との覚悟で信心に励み、難を乗り越える“確固たる自身”を築く中に、真の「現世安隠」があることを知らなくてはなりません。
 御書に「妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり」(750ページ)と示されています。“難こそ安楽”と受け止めていく強靱な信心こそ肝要です。信心根本に難に立ち向かうなかで、何ものにも微動だにしない境涯(真の安楽)を築くことができます。その歩みこそ一生成仏と宿命転換の直道となるのです。
 日蓮大聖人は「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏・後生善処とは是なり」(御書1143ページ)と仰せです。
 何があっても妙法を持ち抜いて広布の実践を貫く中で、永遠にわたる安穏の境涯が確立されることを確信していきましょう。

 

椎地四郎

 日蓮大聖人は本抄の末尾で「四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ」(御書1449ページ)と仰せです。
 また、四条金吾富木常忍宛ての御書に椎地四郎の名前が出てきます
 こうしたことから、椎地四郎は大聖人の晩年、各地の門下と大聖人のもとを行き来していたこと、さらに門下の様子を大聖人に報告し、大聖人のお心を門下に伝える役割を担っていたことがうかがえます。
 また、本抄の冒頭には、椎地四郎が大聖人に対し何らかの報告をしたことが記されています。
 この件について大聖人が、その人本人に確認をされたところ、椎地四郎の報告と全く同じであったと、たたえられています。
 その際、大聖人が言及されているのが、「師曠が耳」「離婁が眼」(同1448ページ)との故事です。
 師曠は、中国古代の音楽家であり、耳のさとい者の例えです。離婁は、中国古代の伝説上の人物とされ、非常に目の良い人の例です。
 これらの故事を挙げられながら、椎地四郎の正確な報告を称賛されています。

 

池田先生の指針から 妙法根本に幸福な人生を

 法華経の行者の実践を貫き、経文を証明してきたのが、大聖人にほかなりません。
 そのうえで「但し」以下の御文では、法華経の行者の要件が綴られています。その根本が、「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」との仰せです。
 いかなる大難にも真正面から立ち向かい、勝利し、悠然と乗り越えていくのが、法華経の信心です。御書には「悦び身に余りたる」(1343ページ)、「大に悦ばし」(237ページ)、「いよいよ悦びをますべし」(203ページ)と、「大難」即「歓喜の仰せが随所に示されています。
 どんなに大難があっても、正法弘通に生き抜き、目の前の一人の苦悩を取り除き、幸福の種を心田に植えていく悦びに勝るものはない。この最高にして最強、そして最尊の人生を促す力が、法華経に具わっています。法華経に生き切ること自体が、最高の幸福なのです。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第11巻)
 ◇ ◆ ◇ 
 「大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや」
 この御文を拝するたびに、いかなる迫害にも屈することなく、悠々と大難を受け入れ、勝ち越えられた大聖人の広大な御境涯が偲ばれ、深い感動を新たにします。
 ともあれ、難があるからこそ、信心の炎が燃え上がる。大海のごとき広大な境涯を開いていける。そして必ず仏になれる。信心があれば、大難こそ宿命転換の絶好の機会ととらえていけるのです。
 さらに大聖人は、「大難なくば法華経の行者にはあらじ」と仰せです。法華経に説かれた通りに大難が起こるということは、末法法華経の行者としての実践が正しかったという何よりの証左となるのです。
 大聖人の御在世当時、世間でも法華経を信じる者たちは少なからずいました。しかし彼らは、ただ自らの功徳を求めて講義を聴いたり、写経をしたりするだけにすぎませんでした。それは、「困難な時代に、命懸けで迷い悩める人を、一人残らず断じて救う」という仏の真意とは、かけ離れた法華経観であったのです。
 この当時の法華経観を敢然と打ち破られたのが、大聖人の死身弘法の「行者」としての大闘争であられました。(同)

参考文献

 〇…『勝利の経典「御書」に学ぶ』第11巻(聖教新聞社