〈9・8「日中国交正常化提言」50周年記念特集〉㊦ 香港「天地図書」取締役 総編集長 孫立川博士 2018年9月8日

〈9・8「日中国交正常化提言」50周年記念特集〉㊦ 香港「天地図書」取締役 総編集長 孫立川博士 2018年9月8日

友誼の使者たる“創価家族”がいる限り
世界平和の精神は永遠に輝く
池田先生ご夫妻と和やかに語り合う孫博士。この日、先生は北京魯迅博物館の初の「名誉顧問」に就任した(2000年4月3日、八王子市の東京牧口記念会館で)

 「日中国交正常化提言」発表50周年に寄せて、香港で最も影響力のある出版社の一つ「天地図書」の取締役総編集長で、著名な作家・翻訳家でもある孫立川博士に、提言の意義や池田先生との出会い、今後の日中関係などについて聞いた。(聞き手=西賢一)

 ――孫博士はかつて、香港の有力紙のコラムで、日中国交正常化提言を「社会に万波を広げた勇気と英知の行動である」と高く評価されました。
  
 私は、国交正常化への一連の流れの中で、池田先生の提言が最大の力になったと考える一人です。
 多くの学識者も「あの提言が中国と日本の国交正常化を後押しした」と、明確に結論付けています。
 昨年、45周年の佳節を迎えた国交正常化が実現したのは、1972年9月29日です。その4年前に提言をなされたという先見性もさることながら、中日関係が最も困難な時期に発表するのには、大変な勇気が必要だったに違いありません。
 提言には、大きく二つの意義があると思います。
 一つは、「学生部総会」という非常に大きな場で、大勢の人たちを前に発表したという点です。しかも、そこに集ったのは、将来を担い立っていく青年たちでした。
 参加者は1万数千人だったと聞いていますが、提言の反響はその人数だけにとどまらず、家族や学友、創価学会の会員へと広がり、まずは日本の数十万人に及んでいったと考えられます。
 もう一つは、先ほども述べた通り、大変な混乱の時代に「国連における中国の正当な地位の回復」などを主張されたことが、中国の未来に極めて大きな貢献を果たしたという点です。
 かつて、学生部総会に出席した方に話を伺ったことがあります。参加者一人一人に深い印象を残し、生涯にわたって両国の友好のために頑張っていこう、子々孫々にまで伝えていこう――そうした決意を起こさせる総会だったことが、よく分かりました。
 まさに、創価学会という「民衆」に基盤を持つ団体が、中日友好の流れを民衆の中につくってきたのだと思います。

「新・人間革命」の中国語版を発刊

 ――日本への留学経験もある孫博士と池田先生の出会いを聞かせてください。
  
 私が初めて池田先生の存在を知ったのは、74年を過ぎてからです。当時は文化大革命の真っただ中で、国外の情報を知ることができる唯一の手段は、新華社発行の「参考消息」を読むことだけでした。そこに、先生の中日国交正常化への貢献が報じられていたのをよく覚えています。
 その後、私は厦門大学を卒業し、83年に国費留学生として日本へ渡りました。ちょうどその頃、先生とイギリスの歴史学者トインビー博士との対談集『21世紀への対話』を読み、先生の思想への理解を深めることができました。
 先生は、博士と対談された際、次のように質問されました。「歴史上、生まれてみたかったと思うのは、どの時代の、どの地域ですか」と。それに対し、博士が「多くの異民族、異文明が互いに出あい、接触し、融合したような国に生まれてきたかったと思います。できたら、西暦紀元が始まって間もない時代の新疆がよかった」と語られたというエピソードも印象に残っています。
 これは、私が司会役を務めた、先生と饒宗頤博士(中国学芸界の至宝)との対談集『文化と芸術の旅路』でも触れられています。
 私は、93年に京都大学の博士課程を修め、文学博士号を取得。その後、香港中文大学の中国文化研究所に勤め、まもなく「明報月刊」(香港の有力誌)の編集に携わるようになりました。翌年には編集局長となり、95年の新年号で中国の発展に大きく貢献した著名人を選び、巻頭インタビューを掲載することになったのです。
 そこで私が「池田先生にお願いしてはどうか」と提案し、取材依頼の手紙を日本に送りました。これがきっかけで先生との親交が始まり、創価学会、香港SGIと交流するようになったのです。
 先生は取材を快諾され、私の質問に丁寧に答えてくださいました。その内容は「明報月刊」95年新年号に誌上インタビューとして掲載され、大きな反響を呼びました。
 光栄にも現在は、小説『新・人間革命』をはじめとして、先生のご著作の中国語版の編集・出版に携わっています。先生の本を読み深める作業の中で、池田思想の卓越した先見性や鋭い洞察力を強く感じてくることができました。
 今回、提言発表50周年の時に符合するかのように、『新・人間革命』が完結します。新聞小説の連載回数日本一という、未到の大偉業を成し遂げられた先生に、心からの敬意を表するものです。

親しみやすい人間的な魅力

 ――香港基本法の起草委員を務めた作家の金庸氏と池田先生の初会見の場にも同席されています。
  
 1995年11月、池田先生が香港を訪問され、金庸先生との対談が実現しました。それが私にとっても、池田先生との初めての出会いとなりました。
 会見は、金庸先生のご自宅に池田先生が招かれる形で行われました。
 ちょうど午後のティータイムでしたので、部屋には軽食のサンドイッチが用意されていました。
 金庸先生が「これは自家製ですので、あまりおいしくないかもしれません」と言うと、池田先生は「とてもおいしいです! おかわりをいただけませんか」と、ユーモアを込めて応じられ、和やかな空気に包まれた記憶があります。
 両者の語らいは、後に対談集『旭日の世紀を求めて』として結実しました。
 私は池田先生の人間的な魅力に引き込まれました。その魅力とは、垣根がなく、とても親しみやすい方であるということです。以来、先生との出会いは、10回以上になります。
 お会いするたびに、先生は私の家族のことを温かく気遣ってくださいました。共に来日した中国の友人たちに「孫さんは私の家族です」と紹介してくださったこともあります。
 先生との友情を宝として、中国の諸大学と創価大学との教育交流の橋渡し役も務めました。私の母校である厦門大学も、その一つです。
 かつて私は、中国本土で教壇に立っていたこともあり、多くの大学に友人・知人がいます。彼らに池田先生の足跡を詳しく伝えると、誰もが感嘆しました。
 それが契機となって創大との交流が始まり、後日、先生に名誉学術称号を贈った大学もあります。

民衆の交流は永久の流れに

 ――今後の日中関係をどう展望しておられますか。
  
 今、両国間には、さまざまな問題や摩擦が起きています。ただ私が思うのは、たとえ関係が悪化したとしても、50年前とは状況が全く違うということです。
 当時は、二つの国の間に国交がありませんでした。しかし、国交が正常化してから四十数年の間に多くの交流が生まれ、相互理解が進んでいます。まさに50年前と比べると、天地雲泥の差です。
 何より、中日関係にどのような変化が起きたとしても、池田先生という、永遠に「友誼」と「信義」の道を貫き通される方がいらっしゃいます。
 先生は中国にとって、最も大切な友人の一人です。正しい歴史認識に立った勇気ある思想家・哲学者を、中国人民は心から信頼しています。
 また、その先生がリーダーシップを執られる創価学会も同様に、「平和の友好の使者」として、どこまでも活躍していかれるでしょう。
 創価学会という「大家族」によって、世界平和の精神は広く伝わり、世々代々へと受け継がれています。
 歴史は常に前に進んでいくものです。その流れは、誰にも止めることはできません。
 両国の民衆同士の交流は、このまま妨げることのできない流れとして、永久に続いていく――そう私は確信しています。

 そん・りっせん 1950年、中国・福建省生まれ。中国作家協会会員。魯迅研究などで知られ、作家、コラムニスト、翻訳家として活躍。小説『新・人間革命』中国語版の発刊に携わる。