〈世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ〉 第3巻 基礎資料編 2018年12月5日

〈世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ〉 第3巻 基礎資料編 2018年12月5日

物語の時期 1961年1月1日~2月14日
「仏法西還」の章
       

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第3巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。次回の「名場面編」は12日付、「御書編」は19日付、「解説編」は26日付の予定。

「仏法西還」の章

 1961年の元旦、山本伸一は自宅で「元朝に 祈るアジアの 広布かな」と認め、妻の峯子に贈る。この1月には28日からの18日間、香港、セイロン(スリランカ)、インド、ビルマミャンマー)、タイ、カンボジアへの平和旅を控えていた。
 学会本部で行われた初勤行の席上、「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」との戸田城聖の和歌が紹介された。翌2日、伸一は、その東洋広布を熱願していた戸田の墓前で、アジア初訪問の出発を報告する。
 アジア訪問の折、「仏法西還」の先駆けの証しとして、釈尊の成道の地であるインドのブッダガヤに、御書の「三大秘法抄」や、「東洋広布」の石碑などを埋納するため、同行のメンバーが準備に奔走する。伸一は渡航前の多忙な日々の中で、九州の3総支部合同の結成大会、両国支部、宇都宮支部、城西支部、都南支部、江戸川支部など、各地の支部結成大会を中心に指導に駆け巡る。
 1月28日、香港に降り立った伸一は、座談会で、海外ではアジア初の地区を結成。「香港を東洋の幸福の港にしていこう」との期待を寄せる。

月氏」の章

 香港を発ち、次の目的地に向かう機中、伸一は同行の幹部に、近い将来、アジアに総支部をつくりたいとの考えを打ち明ける。戸惑う幹部に対し、「まず構想を描く。そして、そこから現実をどう開いていくかを考えていくんだ」と、現状追随的な意識を打破することを訴える。
 シンガポールを経由し、セイロンへ。そこでは、一人の青年を激励し、男子部の隊長に任命する。
 いよいよインドに到着した一行は、イスラム王朝のクトゥブの塔や、デリー城などを視察。マハトマ・ガンジーを荼毘に付したラージ・ガートに立ち寄り、インドを独立に導いた非暴力の闘争に思いを巡らす。また、アショーカ大王の法勅を刻んだ石柱の下では、仏法を根底にした政治について語り合う。
 タージ・マハルやアグラ城などを巡り、2月4日、ブッダガヤに入る。管理委員会の許可を得て、大菩提寺の境内に、「東洋広布」の石碑や「三大秘法抄」などを埋納する。戸田に誓った東洋広布へ、第一歩を踏み出した伸一は、仏教発祥のインドの地で、“出でよ! 幾万、幾十万の山本伸一よ”と心で叫ぶ。

仏陀」の章

 埋納を終えた一行は、大菩提寺の周辺を散策。釈尊ゆかりの場所を訪ねた伸一は、人類を生命の光で照らした、その生涯に思いをはせる。
 釈迦族の王子として生まれた釈尊は、生後間もなく母を亡くす。万人が避けることのできない老・病・死の問題を解決するため、彼は王家の生活を捨て、出家の道に進む。
 禅定や苦行に励むが悟りを得られなかった釈尊は、尼連禅河を渡り、菩提樹の下で深い瞑想に入り、思念を凝らす。次々と襲う欲望への執着、飢え、眠気、恐怖、疑惑と戦い、無限の大宇宙と自己との合一を感じながら、感動のなかに、永遠不変の真理である「生命の法」を覚知。ついに大悟を得て、仏陀となる。
 彼は、悟った法を説くべきか否か、悩み苦しんだ末に、民衆の中に入って法を説くことを決意する。
 六師外道たちからの迫害にも、提婆達多の反逆にも屈せず、愛弟子の舎利弗、目連との死別の悲しみをも乗り越え、最期の一瞬まで人々を教化した。
 伸一は、その生涯を思い、自らも命の燃え尽きる時まで、わが使命の旅路をゆくことを誓う。

「平和の光」の章

 ガンジス川を訪れた伸一は、居合わせた身なりの貧しい子どもたちとの交流を通して、世界各地の繁栄と平和を念じた戸田の遺志を継ぐ、自身の使命と責任の重さを感じる。その後、寺院や博物館等を見学した一行は2月7日、8日間滞在したインドを離れ、ビルマへと向かう。
 伸一は、ビルマで戦死した長兄をしのびつつ、日本人墓地で戦没者の追善法要を行う。彼の胸には、長兄との思い出が次々と去来する。割れた母の鏡の破片を大切に分け合ったこと。出兵先から一時帰国した兄が、憤懣やるかたない様子で戦争の悲惨さを訴えたこと。その兄の戦死の報を受け、背中を震わせながら母が泣いていたこと――。戦没者の冥福を願う祈りは、恒久平和への強い誓いとなっていた。
 その後、一行は、タイ、カンボジアを訪問。アジア各地で日本軍による戦争の傷跡を目にした伸一は、一人の日本人として、「幸福の道」「平和の道」を開いていこうと決意する。東洋の哲学・文化・民族の研究機関や、音楽などの交流を目的とした団体の設立を構想。一切の行程を終え、2月14日、帰国の途に就く。

戸田先生の和歌

 雲の井に
  月こそ見んと
   願いてし
  アジアの民に
    日をぞ送らん

 この和歌を聞くと、伸一の心は躍った。それは、一九五六年(昭和三十一年)の年頭に、戸田が詠んだ懐かしい和歌であった。
 ――雲の切れ間に、ほのかな幸の月光を見ようと願うアジアの民衆に、それよりも遥かに明るく、まばゆい太陽の光を送ろう、との意味である。
 ここでいう「月」とは釈尊の仏法であり、「日」とは日蓮大聖人の仏法をさすことはいうまでもない。戸田は、「諫暁八幡抄」などに示された、大聖人の「仏法西還」の大原理をふまえ、東洋広布への決意を詠んだのである。この戸田の決意は、そのまま、愛弟子である伸一の決意であった。
 (「仏法西還」の章、9ページ)

「東洋広布」の石碑

 1961年、インド・ブッダガヤに埋納された「東洋広布」の石碑は現在、ニューデリー近郊の創価菩提樹園にある。
 2015年、インド創価学会(BSG)の地涌の陣列は、目標の10万人を突破。この年、「『東洋広布』の石碑を、この菩提樹園で、私たちが永遠に守っていきたい」とのインドの同志の発願によって、ブッダガヤから移設・埋納された。
 本年、インドの同志は20万人超に。師が先駆けした東洋広布は今、加速度を増して伸展している。

 ※『新・人間革命』の本文は、聖教ワイド文庫の最新刷に基づいています。

 【挿絵】内田健一郎