われらは、
対話をもって
人びとの心田に幸福の種子を植え、
この世の尊き使命を呼び覚ます。
対話をもって
心をつなぎ、世界を結び、
難攻不落の
恒久平和の城塞を築く。
さあ、今日も、対話を進めよう!
(小説『新・人間革命』第30巻〈上〉「雌伏」の章)
◇
池田先生は1979年(昭和54年)5月3日の本部総会後、世界広布の新しい雄飛のために行動を開始した。
直後の5月19日に中日友好協会の廖承志会長、22日にソ連のノーボスチ通信社や大使館の関係者、25日にザンビアの駐日大使と会談するなど平和友好の対話を精力的に推進。翌年4月には第5次訪中に臨む。「36」だった訪問国・地域数は「54」へと広がる。1600回を超える世界の識者との対話も、79年から加速度を増すのである。
「対話の力こそが、時代を開く平和力となる」との信念に貫かれた“人間外交”によって、世界を結び、平和の扉を開いた池田先生。世界の一級の識者は称賛を惜しまない。
「池田会長は現代における偉人です。ヒューマニズムの価値観と理想を高く掲げて、人類に大きな貢献をしておられる。私は深い敬意を抱いております」(ゴルバチョフ元ソ連大統領)
「池田名誉会長は国際的に有名な方で、我が国でもよく知られております。人類の『永遠の価値』を創りながら、その価値で人々を結びつけている団体のリーダーとして、その役割は世界的に重要です」(南アフリカのマンデラ元大統領)
われらは、
対話をもって
人びとの心田に幸福の種子を植え、
この世の尊き使命を呼び覚ます。
対話をもって
心をつなぎ、世界を結び、
難攻不落の
恒久平和の城塞を築く。
さあ、今日も、対話を進めよう!
(小説『新・人間革命』第30巻〈上〉「雌伏」の章)
◇
池田先生は1979年(昭和54年)5月3日の本部総会後、世界広布の新しい雄飛のために行動を開始した。
直後の5月19日に中日友好協会の廖承志会長、22日にソ連のノーボスチ通信社や大使館の関係者、25日にザンビアの駐日大使と会談するなど平和友好の対話を精力的に推進。翌年4月には第5次訪中に臨む。「36」だった訪問国・地域数は「54」へと広がる。1600回を超える世界の識者との対話も、79年から加速度を増すのである。
「対話の力こそが、時代を開く平和力となる」との信念に貫かれた“人間外交”によって、世界を結び、平和の扉を開いた池田先生。世界の一級の識者は称賛を惜しまない。
「池田会長は現代における偉人です。ヒューマニズムの価値観と理想を高く掲げて、人類に大きな貢献をしておられる。私は深い敬意を抱いております」(ゴルバチョフ元ソ連大統領)
「池田名誉会長は国際的に有名な方で、我が国でもよく知られております。人類の『永遠の価値』を創りながら、その価値で人々を結びつけている団体のリーダーとして、その役割は世界的に重要です」(南アフリカのマンデラ元大統領)
世界の指導者と友情を築く
世界の指導者と友情を築く
池田先生は79年以降、インドのラジブ・ガンジー首相、イギリスのサッチャー首相、フィリピンのアキノ大統領、統一ドイツのヴァイツゼッカー初代大統領、コロンビアのガビリア大統領らと語らいを広げていく。
冷戦終結の立役者であるソ連のゴルバチョフ大統領とは、90年7月にモスクワで初会見した。この席上、大統領は翌春の訪日を明言し、ソ連の最高指導者としての初来日が実現する。以来、二人は10度の出会いを重ねている。
南アフリカの反アパルトヘイト(人種隔離)運動の闘士マンデラ氏(アフリカ民族会議副議長)は、90年10月に来日。池田先生との会見の席上、「日本に行ったら、ぜひお会いしなければと思っていました」と語った。大統領就任後に来日した際(95年7月)に再会を果たしている。
96年には、キッシンジャー元米国務長官、キューバのフィデル・カストロ国家評議会議長と相次ぎ対話。当時、キューバによる米国の民間機撃墜事件が起き、両国間の緊張が高まっていた。訪問への反対もある中で、先生はキューバを訪れ、平和への道を切り開いていった。その後、米国による経済制裁が緩和され、両国は関係改善への歩みを進めていく。
世界の指導者と友情を築き、国と国を結んできた池田先生。その行動は「分断」から「結合」、「対立」から「融和」、「戦争」から「平和」へと人類史を転換しゆく壮大な挑戦なのである。
池田先生は79年以降、インドのラジブ・ガンジー首相、イギリスのサッチャー首相、フィリピンのアキノ大統領、統一ドイツのヴァイツゼッカー初代大統領、コロンビアのガビリア大統領らと語らいを広げていく。
冷戦終結の立役者であるソ連のゴルバチョフ大統領とは、90年7月にモスクワで初会見した。この席上、大統領は翌春の訪日を明言し、ソ連の最高指導者としての初来日が実現する。以来、二人は10度の出会いを重ねている。
南アフリカの反アパルトヘイト(人種隔離)運動の闘士マンデラ氏(アフリカ民族会議副議長)は、90年10月に来日。池田先生との会見の席上、「日本に行ったら、ぜひお会いしなければと思っていました」と語った。大統領就任後に来日した際(95年7月)に再会を果たしている。
96年には、キッシンジャー元米国務長官、キューバのフィデル・カストロ国家評議会議長と相次ぎ対話。当時、キューバによる米国の民間機撃墜事件が起き、両国間の緊張が高まっていた。訪問への反対もある中で、先生はキューバを訪れ、平和への道を切り開いていった。その後、米国による経済制裁が緩和され、両国は関係改善への歩みを進めていく。
世界の指導者と友情を築き、国と国を結んできた池田先生。その行動は「分断」から「結合」、「対立」から「融和」、「戦争」から「平和」へと人類史を転換しゆく壮大な挑戦なのである。
学識者・文化人と多彩な語らい
学識者・文化人と多彩な語らい
池田先生の対話のテーマは、平和、人権、経済、文学、美術、音楽、環境など多彩な分野にわたる。世界人権宣言の起草に尽力し、ジャーナリストとして活躍したブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁、米公民権運動の母パークス氏、アルゼンチンの人権活動家でノーベル平和賞受賞者のエスキベル博士をはじめ、ローマクラブ創立者のペッチェイ博士、アフリカの環境の母マータイ博士らと出会いを刻み、仏法を基調とした生命尊厳、環境共生の思想を世界に広げてきた。
また、民主音楽協会、東京富士美術館等の創立者の先生は、ウィーン国立歌劇場のゼーフェルナー総監督、ミラノ・スカラ座のバディーニ総裁、バイオリニストのメニューイン氏、アルゼンチン・タンゴの巨匠プグリエーセ氏とモーレス氏、敦煌文物研究所(後の敦煌研究院)の常書鴻所長ら最高峰の文化人とも対談。“文化の力で、世界の人々の心と心を結ぶ”との哲学が響き合った。
池田先生の対話のテーマは、平和、人権、経済、文学、美術、音楽、環境など多彩な分野にわたる。世界人権宣言の起草に尽力し、ジャーナリストとして活躍したブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁、米公民権運動の母パークス氏、アルゼンチンの人権活動家でノーベル平和賞受賞者のエスキベル博士をはじめ、ローマクラブ創立者のペッチェイ博士、アフリカの環境の母マータイ博士らと出会いを刻み、仏法を基調とした生命尊厳、環境共生の思想を世界に広げてきた。
また、民主音楽協会、東京富士美術館等の創立者の先生は、ウィーン国立歌劇場のゼーフェルナー総監督、ミラノ・スカラ座のバディーニ総裁、バイオリニストのメニューイン氏、アルゼンチン・タンゴの巨匠プグリエーセ氏とモーレス氏、敦煌文物研究所(後の敦煌研究院)の常書鴻所長ら最高峰の文化人とも対談。“文化の力で、世界の人々の心と心を結ぶ”との哲学が響き合った。
教育交流で相互理解を促進
教育交流で相互理解を促進
政治の世界は、ともすれば時代の激流に翻弄されがちであるが、大学などの学問の府には普遍性、永続性がある。その国の最高学府に学んだ人たちは、社会建設の次代の担い手となる。さらに、若い世代の交流は、グローバル化する世界を結ぶ新しい力となろう。
(小説『新・人間革命』第30巻〈下〉「誓願」の章)
◇
世界の知性との対話は、教育・学術交流によって民衆の相互理解を促進する中で繰り広げられてきた。79年12月のアフガニスタン侵攻で非難を浴びていたソ連を81年5月に訪問。モスクワ大学のログノフ総長と対談した。また、中国が国際社会から孤立していた90年5月、大交流団を率いて北京へ。北京大学で3度目の講演を行った。
池田先生が創立した創価大学の交流校は現在、海外61カ国・地域の212大学にまで拡大した。次代を担う幾多の若人が“教育の懸け橋”を往来し、陸続と世界へ羽ばたいている。