ミュージシャンBORO世界広布新時代第41回本部幹部会から(活動体験) 2019年5月13日

世界広布新時代第41回本部幹部会から(活動体験) 2019年5月13日

関西副芸術部長 兵庫・創価西宮県 副県長 森本尚幸さん
ミュージシャンBORO 今年デビュー40周年
どん底からはい上がった勝利の人生

 一、私は1956年(昭和31年)、兵庫県伊丹市で家族と共に入会しました。
 幼少の頃の私は病弱で、重度のぜんそくと皮膚炎に悩まされていました。外遊びができなかった分、家にあったおもちゃのピアノやリコーダーで遊ぶようになり、自然と音楽が大好きになりました。
 両親の懸命な祈りで、中学生になった頃には健康体に。そんな私に母は、生涯最高の財産をプレゼントしてくれました。御書です。
 「ここに書いてあるのは皆、前向きな言葉や。世界一、高い教えやから、尚幸も必ず高いところまでいけるんやで」。母はそう教えてくれました。
 しかし高校1年生の時、そんな母との突然の別れが訪れました。脳出血で倒れ、7日後に霊山へと旅立ったのです。
 どん底の悲しみの中で、私の病まで再発。ある寒い日の夜に、激しいぜんそくの発作に見舞われました。
 父は留守で私一人。あまりの苦しさに、いっそ裏の池に身を投げてしまおうと思いつめました。はうようにして池にたどり着き、冷たい水の中に漬かり、真ん中を目指して歩いていきました。“これで楽になれる”と思いましたが、そうはいきませんでした。池は真ん中に行くほど浅かったのです(笑い)。気が付けば、膝ぐらいまでしか水のないところに、ポツンと立っていました(笑い)。
 突然、母が教えてくれた「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」(御書1124ページ)の御聖訓が心に浮かびました。「生きるんや。生きて生きて生き抜いたる!」。私は池の真ん中で叫びました。帰りは死ぬほど寒かったです(笑い)。
 一、病と闘う決意をした私を、男子部の先輩が心から励ましてくださいました。「宿命転換するには折伏や」との激励のままに、仏法対話に挑戦。友人4人を入会に導くことができました(拍手)。
 自行化他の実践の功徳で、見る見る体調も回復。71年には夏季講習会に参加し、池田先生に初めてお会いすることができました。「広布のお役に立つ音楽家に成長します」。こう心の底から誓いました。
 その後、上京して音楽学校で学び、卒業後は大阪の北新地で歌いながら作曲活動に没頭しました。自作の曲が300曲を超えた頃、大物プロデューサーとの出会いがあり、79年にメジャーデビュー。2曲目のシングル「大阪で生まれた女」を大ヒットさせることができました(拍手)。
 その後も芸能活動は順調そのものでした。私は感謝の思いで、各地で開催される仏法セミナーに参加し、喜んで体験を語っていました。しかし、こうした私の信仰活動を快く思わない人もいました。
 デビューから6年後、レコード会社や事務所関係者に呼び出され、「信仰を取るか、仕事を取るか」と詰め寄られました。今なら「両方、取ります。信仰は個人の自由です」と言えるのですが、若かった私は「信仰です」とキッパリ言い切りました。
 事務所は即日解雇に。それから4年ほどは、完全に芸能界から干されました。しかし、私の心は晴れやかでした。「世間の失一分もなし」(同958ページ)。御書の通りやと闘志が湧きました。今思えば、舞台演劇やミュージカルへの出演など、この時、新しいことに挑戦できたことも、かけがえのない財産となっています。
 一、しかし、自分の信念を通すことは、家族に負担を掛けることにもつながりました。妻とのすれ違いが増え、私にとって2度目となる離婚を経験することになりました。最愛の子どものことを思うと、あまりにふがいなく、どん底まで落ち込みました。
 離婚が決まった翌日もセミナーがありました。出席するべきか、当時の芸術部の先輩に相談すると、「行きなさい。自分のありのままを語ってきなさい」と厳しくも温かい激励を頂きました。
 セミナー終了後に、一組の夫婦が私のもとに来られました。ご主人が未入会でした。
 私はお二人に、「実は私は昨日、離婚しました。偉そうなことなんか言えません。奥さん、ご主人が信心に反対でも夫婦仲良く歩んでいること自体、素晴らしいやないですか」と話しました。するとご主人は「そんな個人的なことまで、よく話してくれました。分かりました。私も妻と共に信心します」と語ってくださったのです。
 奥さんは号泣され、私も人目をはばからず泣きました。「はたらかさず・つくろわず・もとの儘」(同759ページ)、これが仏法者なんやと心の底から教えていただきました。
 一、91年の夏、故郷の伊丹でタクシーに乗っていると運転手さんが声を掛けてきました。
 「BOROさん、筋ジストロフィーの娘のために曲を作ってくれませんか」。筋ジストロフィー――この難病(厚生労働省指定の特定疾患)の名を、その時、初めて聞きました。
 当時5歳だった娘さんの、あやかちゃんに会いました。すでに筋肉が萎縮し、手足は動かず、話すこともできませんでしたが、笑顔がひときわかわいい女の子でした。
 私は、彼女のために喜んで曲を書きました。その曲を収録したCDの売り上げは、難病撲滅のために全て使ってもらいました。ご家族も本当に喜び、その後、入会されました(拍手)。
 あやかちゃんは9歳で亡くなりましたが、彼女が生きた証しを示すためにも、難病撲滅を目指す「AYAKA基金」を立ち上げました。今年で26年になります。
 チャリティーコンサート等で集まった募金は、これまで6人の厚生労働大臣に直接お渡しし、安倍首相にも難病克服の重要性を訴えることができました。
 さらに活動の輪が広がり、一昨年には、京都大学iPS細胞研究基金にも、支援の楽曲を提供させていただくことに。ノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥教授も曲を気に入ってくださり、私の活動も、教授の活動も目標は同じであるとエールを送ってくださいました。
 一、私自身も、これまでC型肝炎、硬膜下血腫など、数々の病魔と闘ってきましたが、全て信心で勝ち越えてくることができました。65歳になった今が一番、健康です。
 思い込んだら、がむしゃらに突き進む私を深く理解し、前の妻や子どもたちとも仲良くし、私の全てを支えてくれる今の妻には感謝しかありません。再婚して29年、彼女のおかげで宿命転換できました。
 私にとって今年は、デビュー満40年の節目の年です。報恩感謝を胸に、まずは関西の月、正義の月・7月へ、愛する兵庫の、また全国のボロ勝ちのために、全力で戦い抜いていきます(拍手)。