〈世界広布の大道 小説「新・人間革命」に学ぶ〉 第8巻 名場面編 2019年5月15日

〈世界広布の大道 小説「新・人間革命」に学ぶ〉 第8巻 名場面編 2019年5月15日

 
「布陣」の章

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第8巻の「名場面編」。心揺さぶる小説の名場面を紹介する。次回の「御書編」は22日付、「解説編」は29日付の予定。(「基礎資料編」は8日付に掲載)

若さは柔軟な精神に

 〈1963年(昭和38年)5月14日、東京の「おとしよりの集い」に出席した山本伸一は、人生の大先輩への感謝と真心を込めて、励ましを送る〉
 
 伸一は、さらに、強い確信を込めて語った。(中略)
 「若くても、老いている人もいる。年は老いても若い人もいる。人間の若さの最大の要因は、常に向上の心を忘れない、柔軟な精神にあるといえます。
 また、人間の幸福は、人生の晩年を、いかに生きたかによって決まるといえます。過去がどんなに栄光に輝き、幸福であったとしても、晩年が不幸であり、愚痴と恨みばかりの日々であれば、これほど悲惨なものはありません。
 さらに、幸福は、財産によって決まるものではない。社会的な地位や名誉によって決まるものでもない。幾つになっても、生きがいをもち、使命をもって、生き抜くことができるかどうかです。
 信心をしてこられた、人生の大先輩である皆様が、お元気で、はつらつと、希望に燃え、悠々と日々を送られていること自体が、仏法が真実である最大の証明であります。
 皆様方が、いつまでもお元気で、長寿であられんことをお祈り申し上げ、本日のあいさつとさせていただきます」
 (中略)
 彼は、退場すると、そのまま会場の正面玄関に回り、参加者の激励にあたった。人の命には限りがある。今、この時に、会って励ましておかなければ、生涯、会えなくなってしまう人もいるかと思うと、一人ひとりに声をかけずにはいられなかった。
 「ご苦労様! おばあちゃんは、お幾つ?」
 「はい、八十三です」
 「そうですか。大変に若々しい。いついつまでも、お元気で!」
 参加者は、伸一が差し出した手を強く握り締めながら、満面に笑みの花を咲かせるのであった。なかには喜びのあまり、目に涙を浮かべる人もいた。
 言葉は光である。たった一言が、人間の心に、希望の光を送ることもある。
 彼は、命を振り絞るようにして、“励ましの言葉”“賞讃の言葉”“勇気の言葉”を紡ぎ出し、参加者に語りかけた。(「布陣」の章、38~40ページ)

いざという時が勝負

 〈7月6日、伸一は、水滸会の研修が行われる宿舎に着くと、あいさつに来た青年部長らに、死身弘法の精神について指導する〉

 伸一は、語り続けた。
 (中略)
 「戦後、先生の事業が行き詰まり、最悪の事態を迎えられた時にも、皆がどうするか、弟子たちがどんな行動に出るか、じっとご覧になっていた。それが“人を見る”ということだ。だから、いざという時にどうするか、何をするかが勝負だよ」
 伸一は、懐かしそうに、戸田城聖との思い出を語り始めた。
 「先生の事業が最も窮地に陥っていたころ、私も胸を病み、発熱と喀血に苦しんでいた。給料も遅配が続き、社員は一人、二人と去っていった。なかには陰に回って、大恩ある先生を痛烈に批判する者もいた。
 そのなかで、私は働きに働いた。そして、先生に一身を捧げ、先生とともに戦い、先生が生きておられるうちに、広宣流布に散りゆこうと、密かに決心した。そうしなければ、後世にまことの弟子の模範を残すこともできないし、現代における大聖人門下の鑑をつくることもできないと、考えたからだ。
 しかし、戸田先生は、何もかも、鋭く見抜かれていた。私の心も、すべてご存じであったのだ。先生は言われた。
 『お前は死のうとしている。俺に、命をくれようとしている。それは困る。お前は生き抜け。断じて生き抜け! 俺の命と交換するんだ』
 弟子を思い、広宣流布を思う、壮絶な火を吐くような師の叫びだった。この先生の言葉で、私は広宣流布のために、断じて生き抜く決意をした。
 広布に一身を捧げ、殉ずることと、広宣流布のために生き抜くことは、表裏の関係であり、一体といってよい。そこに貫かれているのは、死身弘法の心だ。
 なぜ、水滸会員である君たちに、私がこんな話をするのか。広宣流布を託すのは、青年部の代表として選ばれた、水滸会の君たちだからだ」
 深い指導であった。秋月英介たちは、山本会長が、水滸会に、最大の力を注ごうとしていることを痛感したのである。(「宝剣」の章、108~110ページ)

常に師を心の規範として

 八月十一日の夕刻、羽田の東京国際空港から、副理事長の春木征一郎と、理事で南米総支部長の山際洋が、アルゼンチンへ向けて出発した。
 これは夏季海外指導の第一陣で、二人はカナダのバンクーバーを経由し、アルゼンチンに入り、パラグアイ、ブラジル、ペルー、ボリビアなどを歴訪して、メンバーの指導、激励にあたり、八月二十九日に帰国の予定であった。
 (中略)
 草創期から行われてきた夏季地方指導が、今や世界指導となったのである。
 伸一は、(中略)春木と山際が、出発のあいさつに来た時、二人にこう語った。
 「二人はメキシコも経由することになっていたね」
 「はい」
 「戸田先生が亡くなる直前、『昨日は、メキシコへ行った夢を見たよ』と、嬉しそうに語っておられたことが、私は忘れられないんだ。そして、『待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな、世界へ』と言われた。
 あなたたちは、その戸田先生の代わりに、今回、南米に行くのだという、強い自覚をもってほしい。
 私も、どこに行っても、いつも、その自覚で行動している。“戸田先生ならどうされるだろう。どんな戦いをなされるだろう”と、常に考えている。また、先生がご覧になって、お喜びいただける自分であるかと、常に問い続けている。だから力が出せた。勇気を出すことができた。師弟の道とは、そうした生き方であると、私は思っているんだよ。
 私もできることなら、メキシコにも、アルゼンチンにも、ペルーにも行きたい。いや、すべての国を回って、力の限り、一人ひとりを励ましたい。しかし、今の私には、その時間がない。だから、あなたたちは、私の代わりでもある。ひとたび行く限りは、そこに生命を刻みつける思いで、メンバーの指導、激励にあたってくることだ。(中略)」
 春木と山際は、決意を新たにして、南米へ旅立って行った。(「清流」の章、218~219ページ)

信義と友情の「宝の橋」

 〈日本の支配によって辛酸の歴史を刻んだ韓国では、1964年(昭和39年)、学会への誤解から、同志は弾圧を受ける。「正義」を証明しようと、社会奉仕の諸活動に励む〉
 
 山本伸一も、韓国の敬愛する同志の、幸福と活躍を念じ、「功徳の雨よ降れ!」と、日々、題目を送り続けてきた。また、韓国の同志が日本にやって来ると聞けば、真っ先に会い、一人ひとり、抱きかかえる思いで、精魂を込めて激励した。さらに、日本と韓国の間に、信義と友情の、永遠の「宝の橋」を架けようと、文化・教育の交流に、力を注いでいったのである。
 そうした努力が実り、一九九〇年(平成二年)秋、(中略)初めて、念願の韓国を訪問したのである。そして、九八年(同十年)五月、伸一は、再び韓国の大地に立った。創価大学創立者として、名門・慶煕大学から招かれ、「名誉哲学博士号」を贈られたのである。伸一の「世界平和への献身的努力」と、「韓国の文化と歴史への深い洞察を通し、韓日の友好に大きく寄与した」ことを讃えての授与であった。
 この韓国訪問中の五月十八日、伸一は、ソウルにある、SGI韓国仏教会本部を初訪問したのである。初夏の風がさわやかであった。
 (中略)メンバーは、この日が来ることを夢に見、祈り、待ちわびてきたのである。それは、伸一も同じであった。彼は、韓国の“信心の大英雄”たちに、万感の思いを込めて呼びかけた。
 「皆様方がおられれば、いっさいを勝利に導いていけるということが、厳然と証明されました。皆様は勝ちました!」
 喜びの大拍手が舞った。
 「社会に奉仕し、人間性を広げていく。二十一世紀の仏法ルネサンスは、韓国から始まっています。私は嬉しい。全世界が皆様を讃嘆しています!」
 一言一言に、全生命を注ぐ思いで、伸一は語った。
 「どうか、『楽しき人生』を! 『偉大な人生』を! 『勝利の人生』を!」
 誰もが泣いていた。誰もが大歓喜に包まれていた。そして、誰もが新たな旅立ちの誓いに燃えていた。(「激流」の章、369~372ページ)

 【挿絵】内田健一郎
 【題字のイラスト】間瀬健治

 ※『新・人間革命』の本文は、聖教ワイド文庫の最新刷に基づいています。