〈世界広布の大道 小説「新・人間革命」に学ぶ〉 第9巻 名場面編 2019年6月11日

〈世界広布の大道 小説「新・人間革命」に学ぶ〉 第9巻 名場面編 2019年6月11日

 
「新時代」の章

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第9巻の「名場面編」。心揺さぶる小説の名場面を紹介する。次回の「御書編」は19日付、「解説編」は26日付の予定。(「基礎資料編」は5日付に掲載)

大変な所で戦う功徳は厳然

 〈1964年(昭和39年)5月12日、オーストラリアへ出発した山本伸一は、経由地のフィリピンのマニラで、現地で奮闘する伊丹貴久子に励ましを送る〉
 
 彼女(伊丹貴久子=編集部注)は、マニラで、懸命に学会活動に励んだ。しかし、カトリックの影響の強い国であり、文化の違いからか、大聖人の仏法を理解させることは、かなり難しかった。
 また、戦時中、日本軍の侵略を受けているだけに、反日感情も強かった。(中略)
 貴久子は、伸一に、フィリピンでの活動の現状を語り始めた。
 「先生、フィリピンでは、広宣流布はなかなか進みません。(中略)カトリックが人びとの生活に深く根を下ろし、(中略)そのなかで仏法を信ずるということは、本当に難しいんです」
 彼女の顔には、疲労の色がにじんでいた。日々、悩みつつ、初めての国で頑張り続けてきたのであろう。
 伸一は、包み込むような優しい口調で言った。
 「あなたの苦労はよくわかります。でも、大変なところで、人びとに信心を教えていくことこそ、本当の仏道修行です。
 御書にも『極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず』(三二九ページ)と仰せではありませんか。穢土とは、娑婆世界のことであり、現実というものの厳しさともいえる。しかし、厳しい環境であればあるほど、広宣流布に励む功徳は大きい。
 また、地涌の菩薩はどこにでもいる。この国にだけは、出現しないなんていうことは絶対にないから大丈夫だよ。真剣に広布を祈り、粘り強く仏法対話を重ねていけば、必ず信心をする人が出てきます」
 広宣流布が至難であることは、御書に照らしてみれば明らかである。御本仏の御遺命を果たす聖業が、容易であるはずがない。(中略)彼女は、懸命に働き、壁に突き当たり、悩み抜いているのである。今、貴久子に何よりも必要なものは、励ましであった。
 指導といっても、一様ではない。信心がわからぬ人には、仏法のなんたるかを、懇切に教えなくてはならない。(中略)必死になって頑張っている人は、讃え励まし、元気づけることだ。
 (「新時代」の章、64~66ページ)

現実を打開するのが信心

 〈1966年(昭和41年)7月16日、伸一は、高等部の人材グループである鳳雛会・鳳雛グループの野外研修に出席。質問会で、工藤きみ子という足が不自由なメンバーが、自身の苦境と将来への不安を、涙を浮かべながら吐露する〉
 
 工藤は、広宣流布に生きる使命の大きさを思えば思うほど、自分の置かれた現実を、どう開いていけばよいのかわからず、もがき苦しんでいたのであろう。
 その時、伸一の厳しい叱咤が飛んだ。
 「信心は感傷ではない。泣いたからといって、何も解決しないではないか!」
 緊張が走った。室内は静寂に包まれた。
 伸一は、彼女を見すえながら、強い語調で語り始めた。
 「あなたには、御本尊があるではないか! 迷ってはいけない。ハンディを嘆いて、なんになるのか。いくら嘆いてみても、事態は何も変わりません。
 また、すべての人が、なんらかの悩みをかかえているものだ。いっさいが恵まれた人間などいません。
 学会っ子ならば、どんな立場や状況にあろうが、果敢に挑戦し、人生に勝っていくことだ。どうなるかではなく、自分がどうするかです。
 本当に教員になりたければ、必ず、なってみせると決めなさい。もし、大学に進学することが経済的に大変ならば、アルバイトをして学費をつくればよい。夜学に通ってもよい。
 使命に生きていこうとすることは、理想論を語ることではない。観念の遊戯ではない。足もとを見つめて、現実を打開していくのが信心です。困難を乗り越えていく姿のなかに、信心の輝きがある。
 いかなる状況下にあっても、誰よりも力強く、誰よりも明るく、誰よりも清らかに生き抜き、自分は最高に幸福であると言い切れる人生を送ることが、あなたの使命なんです」
 工藤は、唇をかみしめ、何度も、何度も頷いた。
 「そうだ。負けてはいけない。何があっても、負けてはだめだよ。強くなれ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張るんだよ」
 伸一の言葉には、厳しさのなかにも、優しさがあふれていた。
 (「鳳雛」の章、187~189ページ)

「感謝」は幸福の原動力

 〈1964年10月16日、ノルウェーオスロを訪問した伸一に対し、現地の地区部長・橋本浩治は、心から感謝の思いを伝える〉
 
 橋本は、改まった口調で、伸一に語り始めた。(中略)
 「昨年の一月、パリの空港で、ノルウェーに来ていただきたいと申し上げた時、先生は、訪問のお約束をしてくださいました。
 その約束を、本当に果たしてくださり、申し訳ない限りです。それに対して、私の方は、何も先生にお応えすることができません。しかし、そんな私のために、おいでくださったと思うと、感謝の言葉もありません。本当にありがとうございます」
 橋本の声は、喜びのためか、涙声になっていた。
 「いや、感謝しなければならないのは私の方だ。橋本さんに苦労をかけるんだもの……。それはそれとして、何ごとにつけても、その感謝の心は大切だね。感謝があり、ありがたいなと思えれば、歓喜が湧いてくる。歓喜があれば、勇気も出てくる。人に報いよう、頑張ろうという気持ちにもなる。感謝がある人は幸せであるというのが、多くの人びとを見てきた、私の結論でもあるんです。
 また、裏切っていく人間には、この感謝の心がないというのも真実だ。感謝がない人間は、人が自分のために、何かしてくれてあたりまえだと思っている。結局、人に依存し、甘えて生きているといってよい。だから、人が何かしてくれないと、不平と不満を感じ、いつも、文句ばかりが出てしまう。そして、少し大変な思いをすると、落ち込んだり、ふてくされたりする。
 それは、自分で自分を惨めにし、不幸の迷路をさまようことになる。
 御書に『妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず』(三八三ページ)と仰せだ。人がどうだとか、何もしてくれないと文句を言うのは、己心の外に法を求めていることになる。
 結局、精神の弱さだ。すべては自分にある、自分が何をなすかだという、人間としての“自立の哲学”がないからなんだ。その哲学こそが、仏法なんだよ」
 (「光彩」の章、305~307ページ)

恩師の心に思いを馳せて

 〈1964年12月2日、伸一は沖縄の地で、小説『人間革命』の筆を起こす〉
 
 法悟空ペンネームで、伸一がつづる、この『人間革命』は、聖教新聞からの強い要請もあって、明六五年(昭和四十年)の元日付から、聖教紙上に連載されることになった。(中略)
 ――『人間革命』は、戸田を中心とした、創価学会広宣流布の歩みをつづる小説となるが、それは、最も根源的な、人類の幸福と平和を建設しゆく物語である。
 そして、そのテーマは、一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする――ことである。
 ならば、最も戦争の辛酸をなめ、人びとが苦悩してきた天地で、その『人間革命』の最初の原稿を書こうと決め、伸一は、沖縄の地を選んだのである。(中略)
 ――物語は、一九四五年(昭和二十年)の七月三日の、戸田城聖の出獄から書き起こすことにしていた。
 広宣流布の大指導者である戸田の出獄は、人類の平和の朝を告げる「黎明」にほかならないことから、彼は、それを第一巻の第一章の章名としたのである。
 しかし、章名を記したところで、彼のペンは止まっていた。冒頭の言葉が、決まらないのである。(中略)
 “先生は、焼け野原となった無残な街の姿を目の当たりにされ、何よりも、戦火にあえぐ民衆に、胸を痛められたにちがいない。
 そして、戦争という、最も卑劣な愚行を、憎まれたはずである。国民を戦争に駆り立ててきた指導者への怒りに、胸を焦がされていたはずである”
 彼は、戸田の心に思いを馳せた時、脳裏に、ある言葉が浮かんだ。
 「戦争ほど、残酷なものはない。
 戦争ほど、悲惨なものはない。
 だが、その戦争はまだ、つづいていた……」
 伸一のペンが走った。
 数行ほど書いて、それを読み返してみた。
 気負いのない、率直な表現だと思った。
 “できた。できたぞ。これで、いこう!”
 冒頭が決まると、ペンは滑らかに走り始めた。(「衆望」の章、386~391ページ)

 【挿絵】内田健一郎
 【題字のイラスト】間瀬健治

 ※『新・人間革命』の本文は、聖教ワイド文庫の最新刷に基づいています。