〈世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ〉 名場面編 第11巻 2019年9月11日

〈世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ〉 名場面編 第11巻 2019年9月11日

 
「暁光」の章

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第11巻の「名場面編」。心揺さぶる小説の名場面を紹介する。次回の「御書編」は18日付、「解説編」は25日付の予定。(「基礎資料編」は4日付に掲載)

ブラジルに轟く歓喜のかけ声

 〈1974年(昭和49年)3月、ブラジルでは、山本伸一を迎えての文化祭が予定されていた。しかし、学会に対する誤解から、ビザが発給されず、直前で訪問は中止に。伸一は、電話で現地のリーダーを励ます〉
 
 伸一の声であった。(中略)
 「辛いだろう。悲しいだろう。悔しいだろう……。しかし、これも、すべて御仏意だ。きっと、何か大きな意味があるはずだよ。勝った時に、成功した時に、未来の敗北と失敗の因をつくることもある。負けた、失敗したという時に、未来の永遠の大勝利の因をつくることもある。ブラジルは、今こそ立ち上がり、これを大発展、大飛躍の因にして、大前進を開始していくことだ。また、そうしていけるのが信心の一念なんだ。
 長い目で見れば、苦労したところ、呻吟したところは、必ず強くなる。それが仏法の原理だよ。今回は、だめでも、いつか、必ず、私は激励に行くからね」
 (「暁光」の章、81~82ページ)

 〈ブラジルの友は悔しさをバネに、祈りに祈り、地域に信頼と友情の連帯を広げた。そして、84年(同59年)2月、当時の大統領の招聘により、ついに伸一の訪問が実現する〉
 
 伸一が、サンパウロ市にある州立総合スポーツセンターのイビラプエラ体育館に姿を見せると、大歓声があがり、大拍手が轟いた。皆、この出会いを、待ちに待っていたのだ。
 伸一は、両手を掲げながら、中央の広い円形舞台を一周したあと、万感の思いを込めてマイクを握った。
 「十八年ぶりに、尊い仏の使いであられるわが友と、このように晴れがましくお会いできて、本当に嬉しい。(中略)しかし、これまでに、どれほどの労苦と、たくましき前進と、美しい心と心の連携があったことか。
 私は、お一人お一人を抱擁し、握手する思いで、感謝を込め、涙をもって、皆さんを賞讃したいのであります」
 (中略)大地を揺るがさんばかりの歓声と拍手が起こり、やがて、あの意気盛んな、歓喜と誓いのかけ声がこだました。
 「エ・ピケ、エ・ピケ、エ・ピケ、ピケ、ピケ。エ・オラ、エ・オラ、エ・オラ、オラ、オラ……」
 皆、目を赤く腫らしながら、声を限りに叫んだ。(「暁光」の章、103~104ページ)

信心は立場や役職ではない

 〈1966年(昭和41年)3月、山本伸一は北・南米を訪問。派遣幹部も手分けして中・南米各国を回り、開拓の苦闘を重ねてきた現地の会員を激励する〉
 
 清原たちは、(パラグアイで=編集部注)懸命に御本尊の功力を、信心の大確信を訴えた。確信と揺らぐ心との真剣勝負であった。
 三歳ぐらいの男の子を抱えた老婦人が尋ねた。
 「この子は孫ですが、生まれつき目が見えないんです。信心を頑張れば、この子の目も、見えるようになりますか」
 老婦人の一家は、移住地の人たちに、仏法のすばらしさを訴え、布教に励んできた。ところが、目の不自由な子どもが生まれたことから、「なんで学会員が、そんなことになるんだ」と、批判を浴びせられていたのである。(中略)悲嘆に暮れ果てての質問であった。
 皆、黙り込んで、清原の言葉を待った。
 彼女は断言した。
 「明確なことが一つだけあります。それは、強盛に信心を貫いていくならば、絶対に、幸福になれるということです。このお子さんが、生涯、信心を貫けるように、育ててください。信心をして生まれてきた子どもに、使命のない人はいません。その使命を自覚するならば、必ず最高の人生を送ることができます」
 この指導が、世間に引け目を感じ、信心に一抹の不安をいだいていた、この家族の心の闇を、打ち破ったのである。
 清原に指導を受けてからというもの、老婦人は、目の不自由な孫が、家の宝だと思えるようになった。そして、家族も、その子どもの幸せを願い、真剣に信心に励み、団結が生まれていったのである。
 (中略)木々の生い茂る道を、マイクロバスに揺られながら派遣幹部たちは思った。
 “もし、自分たちがこの環境のなかに、ただ一人置かれたならば、本当に信心を貫けていただろうか。皆に指導はしてきたが、学ぶべきは自分たちの方ではないのか……”
 信心とは、立場や役職で決まるものではない。広宣流布のために、いかなる戦いを起こし、実際に何を成し遂げてきたかである。
 (「開墾」の章、178~182ページ)

学会っ子は負けたらあかん

 〈9月18日、阪神甲子園球場で「関西文化祭」が行われた。台風の影響による雨のため、鼓笛隊のジュニア隊の出場は見送られた〉
 
 彼女たちが、出場がなくなったことを知ったのは、白と黄色のユニホームを着込み、今か今かと、開演を待っていた時であった。(中略)
 「今回はジュニア隊の出場はなくなりました」
 (中略)こう聞かされると、皆、声をあげて泣きだした。
 “文化祭で山本先生に見ていただくんや!”と、小さな胸に闘志を燃やし、夏休みを返上して、来る日も来る日も、炎天下で練習を重ねてきたのだ。それなのに文化祭に出ることができなくなったと思うと、悔しくて、悲しくて仕方なかったのである。
 ジュニア隊の責任者で女子部の幹部の吉倉稲子にも、少女たちの悔しい気持ちはよくわかった。(中略)しかし、彼女は、心を鬼にして、泣きじゃくる少女たちに、あえて、厳しい口調で言った。
 「学会っ子は、何があっても、絶対に泣くもんやない! みんな、山本先生の弟子やろ! 師子の子やろ! 先生は、泣き虫は大嫌いなはずや!」
 ジュニア隊の少女たちが泣いていた顔を上げた。彼女は、それから、諄々と諭すように訴えた。
 「今日、皆さんの出場を中止にしたんは、皆さんが学会の宝やからです。絶対に、風邪なんかひかせるわけにはいかんからです。(中略)皆さんのことを、一番、心配されているのは、山本先生です。今のみんなの悔しい気持ちも、よくご存じやと思います。残念で仕方ない気持ちはようわかりますが、先生に『私たちは大丈夫です』言うて、ご安心していただいてこそ、鼓笛隊やないでしょうか……」(中略)
 吉倉は、涙ぐむ一人の少女の傍らに行き、腰をかがめて、ハンカチで涙を拭いてあげた。そして、肩に手をかけ、体をゆすりながら言った。
 「悔しいやろうけど、頑張るんや! これも、文化祭の戦いや! あんたは、絶対に弱虫やない!」
 泣いていた少女は、コクリと頷いた。(「常勝」の章、246~248ページ)

難の時こそ師子王の心で進め

 〈1967年(昭和42年)4月22日、山本伸一は新潟を訪問。佐渡の地での日蓮大聖人の闘争に思いをめぐらせた〉
 
 日蓮は、佐渡に流されてからも、弟子たちのことが頭から離れなかった。
 竜の口の法難以来、弾圧の過酷さ、恐ろしさから、退転したり、法門への確信が揺らぎ始めた弟子たちが、少なくなかったからである。(中略)
 弟子のなかには、日蓮に批判の矛先を向ける者もいた。「日蓮御房は師匠ではあられるが、その弘教はあまりにも剛直で妥協がない。我等は柔らかに法を弘めよう」と言うのである。もっともらしい言い方をしてはいるが、その本質は臆病にある。
 しかし、その臆病な心と戦おうとはせず、弘教の方法論に問題をすり替えて師匠を批判し、弟子としての戦いの放棄を正当化しようというのだ。堕落し、退転しゆく者が必ず用いる手法である。
 佐渡で認めた御書には、弟子の惰弱さを打ち破り、まことの信心を教えんとする、日蓮の厳父のごとき気迫と慈愛が脈打っている。曰く「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(御書232ページ)と。天も捨てよ、難にいくら遭おうが問題ではない、ただ身命をなげうって広宣流布に邁進するのみであるとの、日蓮の決意を記した、「開目抄」の一節である。
 それは、諸天の加護や安穏を願って、一喜一憂していた弟子たちの信仰観を砕き、真実の「信心の眼」と「境涯」を開かせんとする魂の叫びであった。
 (中略)さらに、「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(同957ページ)と。法難の時こそ“師子王”となって戦え、そこに成仏があるとの指導である。
 (中略)そして、自分を迫害した者たちに対しても、彼らがいなければ「法華経の行者」にはなれなかったと、喜びをもって述べているのである。
 これこそ、最大の「マイナス」を最大の「プラス」へと転じ、最高の価値を創造しゆく、大逆転の発想であり、人間の生き方を根本から変えゆく、創造の哲学といえよう。(「躍進」の章、394~397ページ)

 【挿絵】内田健一郎 【題字のイラスト】間瀬健治

 ※『新・人間革命』の本文は、聖教ワイド文庫の最新刷に基づいています。