10月度「御書講義」の参考 可延定業書 2019年10月19日

  •  10月度「御書講義」の参考 可延定業書 2019年10月19日
御書全集 986ページ 6行目~14行目
編年体御書 1175ページ 6行目~14行目
「戦う心」の源泉が信心
使命の人生を朗らかに

 10月度の「御書講義」では「可延定業書」を学びます。拝読範囲は「去年の十月これに来りて候いしが御所労の事をよくよくなげき申せしなり……一日もいきてをはせば功徳つもるべし、あらをしの命や・をしの命や」です。ここでは、学習の参考として、本抄の背景と大意、さらに理解を深めるための解説を掲載します。

背景と大意

 本抄は、下総国葛飾郡若宮(現在の千葉県市川市)に住む富木常忍の妻・富木尼御前に送られたお手紙です。
 早くから門下の中心的人物として活躍する夫を、懸命に支えていたのが尼御前でした。
 尼御前は、心労からか、症状の重い病を患い、弱気になっていたようです。
 大聖人は、妙法によって、寿命をも延ばすことができると励まされています。
 題号にある「定業」とは、報いの内容や現れる時期が定まっている業のことです。本抄では、特に寿命の意味で用いています。
 本抄の大意ですが、まず、業には定業と不定業があることを示され、定業である寿命でさえも、強盛な信心によって、延ばすことができると仰せです。
 さらに、文証と先例を通し、法華経こそ、あらゆる人の病を癒やす大良薬であり、末法における女性の幸福を約束した経典であることを強調し、病気を治し、長寿を全うするように励まされます。
 医術にすぐれた四条金吾の治療を受けるよう勧められ、その際の心構えに関しても、金吾の性格を踏まえて、こまやかにご指導されています。
 最後に命は、何ものにも代え難い第一の宝であり、一日も長く生きて功徳を積むよう激励され、本抄を結ばれています。
 大聖人の教えのままに実践を貫いた尼御前は、この後、二十数年も寿命を延ばしました。

抜苦与楽の励まし

 身延を訪れた四条金吾から、富木尼御前の病気が心配であることを聞いていた大聖人は、「これにも・なげき入って候」と、“私も心配していました”と、包み込むように同苦されています。師匠の慈愛に、尼御前はどれほど感激したことでしょう。
 さらに、金吾から、“夫の富木常忍が、尼御前を杖や柱のように支えとして頼みにしている”と聞いていると記されています。
 感謝の思いは、人づてであっても、うれしいものです。
 “必要とされている”“大切にされている”と感じた尼御前は、夫を支えるためにも、生き抜かねばならないと思い、病に立ち向かう決意をしたに違いありません。
 “回復を祈っています”等の同志の励ましは、病と闘う友にとって、思いを寄せてくれる存在を実感することになり、それは病の苦しみを和らげてくれるだけでなく、生きる力をも呼び覚ましてくれます。
 創価の励ましの世界は、苦しみを抜き、生きる希望を与えてくれる抜苦与楽(苦を抜き楽を与える)の麗しい絆の世界なのです。

病と向き合う

 四条金吾は、医術にもたけた頼れる門下であり、大聖人が信頼を寄せていました。
 金吾のことを、「極めて負けじ魂の人で、自分の味方(信心の同志)のことを大事に思う人」と記し、尼御前が安心して治療を受けられるように心を砕いています。
 その上で、「身の財(行動すること)を惜しんでいては、この病を治すのは難しいでしょう」と、行動を起こすよう訴えています
 仏法は道理です。ゆえに、大聖人も、当時の医療を、決して否定してはいません。むしろ、尼御前に、治療を受けるように促されています。信心で強じんな生命力を奮い立たせることはもちろん、その上で、具体的に病気を治療していくことが大切なのです。
 不安であればあるほど、診察などを受けるのをちゅうちょしてしまいがちです。悩むだけであれば、問題の先送りであり、病を悪化させることになりかねません。
 肝要なのは、病と真摯に向き合い、勇気をもって、速やかに行動していくことです。祈りが現実の行動に結びついてこそ、状況を好転させることができるのです。

巡り合えた喜び

 「法華経にあわせ給いぬ」と、“妙法に巡り合えた”ことの素晴らしさを教えられています。
 大聖人は尼御前に、今世の使命を思い出させようとされたと拝せます。
 法華経には「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く、又一眼の亀の浮木の孔に値えるが如ければなり」(657ページ)と記されています。
 今世で大聖人の弟子となり、妙法を受持することができたのは、幸運としか言いようのないことです。変毒為薬、宿命転換の道が、大きく開かれているからです。
 ゆえに、一日でも命を延ばし、今世での使命を果たし抜いて、幸福境涯を確立することを教えられているのです。
 “何のための人生なのか”――根本の大事を忘れることは、病魔に負けた姿ともいえます。逆に、人生の崇高な目的に目覚めれば、病魔を打ち破り、生命の底力を発揮することができます。
 苦しい状況にあったとしても、妙法に巡り合えたこと自体が喜びです。報恩と使命の人生を、朗らかに歩んでいきましょう。

一人の人を大切に

 大聖人は、二人の門下(=四条金吾と富木尼御前)の立場を尊重され、同志と同志が互いに気持ちよく、真心で支え合っていく和合の在り方を教えられたと拝されます。
 それにしても、尼御前が実際に治療に踏み出せるよう、「これほどまでに」と思われるほど、こまやかな配慮を、大聖人はなされています。
 そのお振る舞いから、私たちはあらためて仏法指導者の模範の姿を学びたい。
 「一人の人」を、どこまでも大切に!――その具体的な行動なくして、万人の幸福も、世界の平和もありえないからです。
 「一人の人」のことを、どこまで祈り、励ましていけるか。
 「一人の青年」の成長のために、どこまで心を砕き、道を開いていけるか。
 だれが見ていようがいまいが、その戦いの中にしか、仏法はないのです。

〈池田先生の指針から〉 病魔を打ち破る唱題

 「一日生きる」ことは、それ自体、何ものにも代え難い「光」であり、「価値」であり、「生命の歓喜の讃歌」です。それを奪うことは、宇宙の根本の法則に背く重罪です。
 戸田先生は、「どんな理由があっても、絶対に人を殺してはならない」と厳しく戒めておられました。
 病気に対する姿勢として、大事なことは「おそれず」「あなどらず」です。
 病気になること自体は、決して敗北ではありません。
 仏も「少病少悩」という通り、病気との戦いがあります。
 大切なことは、病気と戦う以前に、「心の次元」で敗れてはならない、という点です。病気に立ち向かっていく「戦う心」の源泉が信心です。ですから、先に拝したように、大聖人は本抄で、まず「心ざしの財」を教えられているのです。
 そのうえで、具体的に治療に励むのは当然です。「信心しているのだから何とかなるだろう」とか、「たいしたことない」と考えるのは、誤った信心の捉え方であり、自身の体への軽視です。「いそぎいそぎ御対治」する行動が大事です。ゆえに、大聖人は「身の財」すなわち行動することを惜しんではいけないと厳しく戒められています。
 「病魔」「死魔」を打ち破る根本の力が、妙法です。「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」(御書1124ページ)です。
 大事なのは、「戦う心」と「最高の治療」、そして「生命力」です。なかんずく、心を強めるのも、最高の治療を生かしていくのも、生命力をわきたたせるのも、唱題が根幹です。
 (『希望の経典「御書」に学ぶ』第1巻)