〈世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ〉 第13巻 基礎資料編 2019年11月6日

〈世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ〉 第13巻 基礎資料編 2019年11月6日

物語の時期 1968年(昭和43年)9月~1969年2月26日
「金の橋」の章
        

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第13巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。次回の「名場面編」は13日付、「御書編」は20日付、「解説編」は27日付の予定。

「金の橋」の章

 1968年(昭和43年)、山本伸一は、大学会の結成など学生部の育成に総力をあげるなか、9月8日に開催された学生部総会で、中国問題について提言を行う。
 当時、中華人民共和国は、7億を超す人口を抱えながら国連への代表権もなく、国際的に孤立していた。日本もアメリカと共に敵視政策を取り、中ソの対立も深刻化していた。
 伸一は、地球民族主義の理念の上から、アジア、世界の平和を願い、「日中国交正常化提言」を発表した。松村謙三日中友好の先達は共感と賛同を寄せ、中国にも打電された。一方で脅迫電話が相次ぐなど、伸一は激しい非難と中傷にさらされる。
 70年(同45年)、訪中した松村は、周恩来総理と会見。総理は、伸一を熱烈歓迎するとの意向を語る。
 しかし、国交回復は政治次元の問題であることから、伸一は、公明党に、日中の橋渡しを託す。72年(同47年)9月、日中共同声明の調印式が行われ、国交正常化が実現する。
 74年(同49年)、伸一は、中国を訪問。第2次訪中では、周総理と会見し、日中友好の永遠の「金の橋」を断じて架けるとの決意を固める。

「北斗」の章

 1968年(昭和43年)9月、伸一は、北海道の旭川へ飛び、日本最北端の地・稚内へ向かった。
 伸一は13日、旭川で、永遠の繁栄と幸福のために広布の大誓願に生き抜くことを訴える。
 翌14日、稚内を初訪問し、総支部指導会に出席。参加者の中には、生活苦等と必死に戦いながら、利尻島の広布を担ってきた夫妻もいた。伸一の訪問は、そうした同志の敢闘をたたえるためでもあった。
 彼は、「稚内が日本最初の広宣流布を成し遂げてもらいたい」など、5項目の指針を示す。最北端の厳しい条件の中で戦う学会員が、偉大な広布の勝利の実証を示せば、全同志の希望になると期待を寄せる。
 終了後、彼は夜空を見上げ、“北海道は、この北斗七星のように、広布の永遠なる希望の指標に”と思う。
 9月25日、伸一は本部幹部会で、創価学会の縮図である座談会の充実を呼びかけ、自ら座談会の推進本部長となることを表明。
 10月には静岡の富士宮市や、東京の北区の座談会へ。その波動は全国に広がり、民衆蘇生の人間広場である「座談会革命」が進んでいく。

「光城」の章

 11月13日、伸一は奄美大島を訪れる。5年前の初訪問に比べて、奄美群島は1総支部から、1本部2総支部へと大発展していた。
 奄美では、この前年、ある村で、学会員への大々的な弾圧事件が起こる。村の有力者らが、躍進する公明党への危機感から、その支援団体である学会を敵視し、村をあげて学会員の排斥が始まる。迫害はエスカレートし、学会員は村八分にされ、御本尊の没収、解雇や雇用の拒否、学会撲滅を訴えるデモにまで発展する。
 報告を受けた伸一は、すぐに最高幹部を派遣し、また、励ましのハガキを送り、奄美の同志を勇気づける。彼は、相手を大きな境涯で包み込み、粘り強く対話を重ね、社会貢献の実証を示していこうと望む。
 奄美大島会館を訪れた伸一は、尊き同志たちの激闘を心からたたえる。そして、「奄美を日本の広宣流布の理想郷に」と呼びかけ、率先して、会館の近隣にも、友好の輪を広げるのであった。
 その後、奄美の同志は、伸一の指導通りに、社会貢献に取り組み、見事に広布の先駆けとなって、希望の「光城」を築いていく。

「楽土」の章

 1969年(昭和44年)元日付の「聖教新聞」に、伸一の詩「建設の譜」が発表される。彼は、今こそ、全同志が勇猛果敢に立ち上がり、万代にわたる広宣流布の堅固な基盤を完成させなければならないと強く決意していた。
 2月15日、伸一は、新装なった沖縄本部での勤行会に出席。各人が自らの宿命転換を図り、国土の宿命転換をも成し遂げようと訴える。
 この頃、沖縄では、米軍基地が多いことから、アメリカ人の入会者が増えていた。兵士や、その家族らで構成されるマーシー地区からは、アメリカ本土やハワイなどで幹部として活躍する世界広布の人材も、多く輩出されていく。 この訪問で伸一は、アメリカ人メンバーや、わが子を不慮の事故で亡くした婦人等の激励に全力を注ぐ。
 また、恩納村から乗った一行の船が流され、名護の同志と劇的な出会いを果たす。さらに、国頭から車に揺られ、沖縄本部に駆け付けたメンバーを抱きかかえるように励ます。
 3泊4日の沖縄指導であったが、一人一人に、楽土建設への不撓不屈の闘魂を燃え上がらせていった。

 第11回学生部総会(1968年9月8日)の席上、中国を巡って、次の3点を訴える提言を発表した。
 ①中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること。②国連における正当な地位を回復すること。③経済的・文化的な交流を推進すること。
 内容はすぐさま、中国にも発信され、周恩来総理の元にもたらされた。
 国内では、「百万の味方を得た」(日中友好に尽くした政治家の松村謙三氏)、「光りはあったのだ」(中国文学者の竹内好氏)などの声もあった一方、非難や中傷も相次いだ。

中国を初訪問

 今、日中国交の扉は開かれた。(中略)民衆は海だ。民衆交流の海原が開かれてこそ、あらゆる交流の船が行き交うことができる。次は、文化、教育の交流だ。人間交流だ。そして、永遠に崩れぬ日中友好の金の橋を築くのだ!
 (「金の橋」の章、97ページ)

山本伸一の激励行 北海道・奄美大島・沖縄へ

 「北海道は日本列島の王冠のような形をしていますが、稚内は、その北海道の王冠です。皆さんこそ、日本全国の広布の突破口を開く王者です」(「北斗」の章、153ページ)

 「最後の勝負は二十一世紀です。(中略)激しい試練にさらされた奄美こそ、広宣流布の先駆けとなって、希望の光城を築いていってください」(「光城」の章、254ページ)

 「大事なことは、社会を、環境を変えていくのは、最終的には、そこに住む人の一念であるということです。(中略)皆さんの存在こそが、沖縄の柱です」(「楽土」の章、340ページ)

 ※『新・人間革命』の本文は、聖教ワイド文庫の最新刷に基づいています。

 【挿絵】内田健一郎 【題字のイラスト】間瀬健治