小説「新・人間革命」に学ぶ 名場面編 第14巻 2019年12月11日

小説「新・人間革命」に学ぶ 名場面編 第14巻 2019年12月11日

  • 連載〈世界広布の大道〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第14巻の「名場面編」。心揺さぶる小説の名場面を紹介する。挿絵は内田健一郎

広布に生きる革命児たれ

 <1969年(昭和44年)、学生運動が過激化する中で、学生部員の多くは、社会改革とはどうあるべきか、悩んでいた。そんな折、山本伸一は、学生部の会合で質問を受ける>
 学生の一人が尋ねた。
 「革命児として生き抜くとは、どういう生き方でしょうか」(中略)
 伸一は、メンバーの質問に答えて、語り始めた。(中略)
 「帝政ロシアの時代や、フランスのアンシャンレジーム(旧制度)の時代は、一握りの支配者が栄華を貪っている、単純な社会だった。
 しかし、今は、社会は高度に発達し、多元化しています。利害も複雑に絡み合っている。矛盾と不合理を感じながらも、既存の秩序の安定のうえに、繁栄を楽しむ人びとが圧倒的多数を占めています。
 そうした現代社会に、単純な暴力革命の図式はあてはまりません。全共闘が提示した最大のテーマは、権力をもつ者のエゴを、さらに、自己の内なるエゴを、どう乗り越えるかということではないかと思う。つまり、求められているのは、権力の魔性、人間の魔性に打ち勝つ、確かなる道です」
 伸一は断言するように語った。
 「人間のエゴイズム、魔性を打ち破り、人間性が勝利していく時代をつくるには、仏法による以外にない。それは、生命の根本的な迷いである『元品の無明』を断ち切る戦いだからです。
 大聖人は『元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか』(御書九九一ページ)と仰せです。仏法によって、内なる『仏』の大生命を開き、人間自身を変革する広宣流布なくして、解決はありません」(中略)
 伸一は話を続けた。
 「結論を言えば、一人の人間の生命を変革する折伏に励むことこそが、漸進的で、最も確実な無血革命になるんです。さらに、生涯を広宣流布のために生き抜くことこそが、真の革命児の生き方です。また、君自身が社会のなかで力をつけ、信頼を勝ち得ていくことが、折伏になります。
 私たちが、行おうとしていることは、未だ、誰人も成しえない、新しい革命なんです。それを成し遂げ、新しい時代を築くのが君たちなんだ」
 (「智勇」の章、27~30ページ)

自身を鍛える“青春学校”

 <7月、富士鼓笛隊は、第6回全米総会を記念するアメリカでの“日米鼓笛隊パレード”に参加。“平和の天使”たちは、互いに励まし合いながら大きな成長を遂げてきた>
 鼓笛隊は、音楽の技術を磨くだけではなく、友情と団結の心を培い、自身を鍛え輝かせる“青春学校”ともいうべき役割を担ってきた。
 アメリカ公演に参加し、やがて第三代の鼓笛部長になる小田野翔子も、鼓笛隊で学会の精神や人間の在り方を学んだ一人であった。(中略)入隊後、しばらくすると、数人の部員に、練習の日時や場所を連絡する係りになった。きちんと連絡をしても、来ない人もいた。しかし、自分は責任を果たしたのだから、あとは本人の問題であると、別に気にもとめなかった。(中略)
 だが、同じ係りのメンバーの取り組み方を見て、彼女は驚いた。連絡しても練習に来ない人がいると、そのことを真剣に悩んで唱題し、先輩に指導を受けたり、家まで訪ねて行って、励ましたりしているのだ。
 「なぜ、そこまでしなくてはならないの?」と首をかしげる小田野に、あるメンバーは言った。
 「だって、練習に通って上達し、出場できるようになれば、すばらしい青春の思い出になるわ。あんな感動はほかにはないんですもの。本人も、それを夢見て鼓笛隊に入ったはずだから、なんとしても、その夢を、一緒に実現してもらいたいのよ。だから私は、最後の最後まであきらめない。適当に妥協しても、誰も何も言わないかもしれないけど、それは、自分を裏切ることだわ」
 小田野は、自分の考え方を恥じた。(中略)
 また、小田野は、音楽の専門家でもない先輩たちが、「世界一の鼓笛隊」にしようと、懸命に努力し続けている姿を目にするたびに胸を熱くした。
 その心意気に感じて、彼女も、「世界一」を実現させるために、自分は何をすべきかを考えた。(中略)
 “自分がどこまでできるかわからないけれど、音大に行って勉強して、鼓笛隊のために役立てるようになりたい”
 人それぞれに使命がある。それぞれが「私が立とう!」と、自己の使命を果たし抜くなかに、真の団結がある。そして、そこに、新しき歴史が創られるのだ。
 (「使命」の章、155~157ページ)

師の舞に勝利の誓い固く

 <12月、関西指導に赴いた山本伸一は、高熱を押して和歌山へ。県幹部会で、全精魂を尽くして指導する>
 伸一の話は、二十四分に及んだ。式次第は、学会歌の合唱に移った。(中略)
 合唱が終わるや、会場のあちこちで「先生!」という叫びが起こった。
 「学会歌の指揮を執ってください!」
 ひときわ大きな声が響いた。伸一は笑顔で頷いた。
 その時である。喉に痰が絡み、彼は激しい咳に襲われた。口を押さえ、背中を震わせ、咳をした。五回、六回と続いた。一度、大きく深呼吸したが、まだ、治まらなかった。苦しそうな咳が、さらに立て続けに、十回、二十回と響いた。
 演台のマイクが、その音を拾った。咳のあとには、ゼーゼーという、荒い呼吸が続いた。皆、心配そうな顔で、壇上の伸一に視線を注いだ。だが、彼は、荒い呼吸が治まると、さっそうと立ち上がった。 
 「大丈夫ですよ。それじゃあ、私が指揮を執りましょう!」
 歓声があがった。
 「皆さんが喜んでくださるんでしたら、なんでもやります。私は、皆さんの会長だもの!」
 大拍手が広がった。(中略)
 音楽隊の奏でる、力強い調べが響いた。(中略)
 山本伸一は、扇を手に舞い始めた。
 それは、天空を翔るがごとき、凜々しき舞であった。
 “病魔よ、来るなら来い! いかなる事態になろうが私は闘う!”
 伸一は、大宇宙に遍満する「魔」に、決然と戦いを挑んでいた。
 (中略)
 和歌山の同志は、伸一の気迫の指揮に、胸を熱くしていた。(中略)
 どの目も潤んでいた。なかには、彼の体を気遣い、“先生! もうおやめください!”と叫びたい衝動をこらえる婦人もいた。
 皆が、涙のにじんだ目で、この光景を生命に焼き付けながら、心に誓っていた。
 “私も戦います! 断じて勝ちます!”
 そして、力の限り手拍子を打ち、声を張り上げて歌った。
 (「烈風」の章、218~223ページ)

創刊原点の精神を胸に

 <1970年(昭和45年)9月、聖教新聞社の新社屋が落成。山本伸一は館内を巡り、聖教新聞創刊の原点を振り返った>
 伸一は、創刊当時に思いを馳せながら、傍らにいた、新聞社の幹部たちに言った。(中略)
 「あの市ケ谷のビルの狭い一室で、新聞を作っていたころの苦労を忘れてはいけない。環境が整えば整うほど、創刊のころの精神を、常に確認し合っていくことが大事ではないだろうか」(中略)
 聖教新聞の創刊は、戸田が事業の失敗という窮地を脱し、第二代会長に就任する直前の、一九五一年(昭和二十六年)四月二十日である。
 戸田が、その着想を初めて伸一に語ったのは、前年の八月、戸田が経営の指揮を執っていた東光建設信用組合の経営が行き詰まり、業務停止となった時のことであった。
 戸田と伸一は、東京・虎ノ門の喫茶店で、信用組合の業務停止を知った、ある新聞社の記者と会った。その帰り道、戸田は、しみじみとした口調で語った。
 「伸、新聞というものは、今の社会では想像以上の力をもっている。……一つの新聞をもっているということは、実にすごい力をもつことだ。
 学会もいつか、なるべく早い機会に新聞をもたなければならんな。伸、よく考えておいてくれ」
 戸田が学会の理事長の辞任を発表したのは、聖教新聞発刊の着想を伸一に語った日の夜のことであった。
 (中略)
 年が明けた一九五一年(昭和二十六年)二月の寒い夜であった。戸田は、伸一に宣言した。
 「いよいよ新聞を出そう。私が社長で、君は副社長になれ。勇ましくやろうじゃないか!」(中略)
 何度となく、準備の打ち合わせがもたれた。新聞の名前をどうするかでも、さまざまな意見が出た。(中略)
 種々検討を重ねて、結局、「聖教新聞」と決まった。
 そこには、大宇宙の根本法たる仏法を、世界に伝えゆく新聞をつくるのだという、戸田の心意気がみなぎっていた。
 (「大河」の章、359~362ページ)