小説「新・人間革命」に学ぶ 第15巻 基礎資料編 2020年1月8日

小説「新・人間革命」に学ぶ 第15巻 基礎資料編 2020年1月8日

  • 連載〈世界広布の大道〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第15巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。挿絵は内田健一郎

【物語の時期】 1970年(昭和45年)5月3日~1971年8月
「蘇生」の章

 1970年(昭和45年)、創価学会は、仏法の人間主義を根底とした社会建設への取り組みを本格化した。
 山本伸一は、人間の精神の開拓を忘れ、便利さや豊かさのみを追求する社会の“歪み”を痛感していた。その最も象徴的な事例が、公害問題の深刻化である。彼は、月刊誌などで、公害問題の本質や対策について論及し、仏法の生命哲理の視点から公害根絶を訴える。
 公害に苦しめられてきた熊本の水俣でも、53年(同28年)ごろから、学会員が誕生。友の幸せを願い、力強く生きる同志の姿は、地域の希望の存在となっていった。
 74年(同49年)1月、伸一は第1回「水俣友の集い」に出席し、皆が「水俣の変革の原動力」となって、「郷土の蘇生の歴史を」と励ます。
 また、70年から翌年の春にかけて、各地で文化・芸術のさまざまな催しが行われる。伸一も、創価の大文化運動の先駆けたらんと、「青年の譜」など、詩歌を次々に発表していく。
 学会として「文化の年」と定めた71年(同46年)が開幕すると、彼は2月、北海道で初の“雪の文化祭”に出席する。雪像の展示や、ゲレンデでのマスゲームなど、新しき庶民文化の祭典を実現した友を、心からたたえた。

創価大学」の章

 1971年(昭和46年)4月2日、東京・八王子に創価大学が開学。山本伸一は、牧口・戸田両会長の大学設立構想を受け継ぎ、その実現に全生命を注いできた。しかし、大学の自主性を尊重し、開学式も、入学式も出席を見送る。
 創立者の伸一は、5月、創大生の代表等に、“学生が主体者となって全ての問題に取り組んでいってほしい”と語る。
 1期生たちは、創立者と同じ責任感で、大学建設に奮闘していく。
 当初、教員の一部に伸一の来学を歓迎しない空気があった。学生たちは自分たちが創立者を呼ぼうと、大学祭として「創大祭」を開催し、訪問が実現。さらに、翌年7月、寮生の「滝山祭」にも伸一は出席する。
 72年(同47年)秋、理事会は、学費値上げの改定案を示す。だが、その進め方は、創立者が示した“学生参加”の原則に反するものだと、学生たちは主張し、白紙撤回となる。その後、学生たちは大学の財政について協議を重ね、自主的に学費値上げを決議する。
 73年(同48年)の第3回入学式には、伸一が初めて出席。彼は、創価大学は、人類のため、無名の庶民の幸福のために開学したと述べ、「創造的人間であれ!」と訴える。
 同年7月、伸一は「滝山祭」の盆踊り大会で、学生の中に飛び込み、手の皮がむけるほど太鼓をたたいて、全身全霊で激励する。また、この年の「創大祭」の祝賀会では、学生のために就職の道を開こうと、招待した各企業のトップ一人一人に、自ら名刺を渡してあいさつする。
 75年(同50年)3月、第1回卒業式で彼は、生涯、創大で結んだ魂の絆を忘れるなと励ましを送る。伸一が命を削る思いで育んだ創大出身者から、世界各国で社会に貢献する多くのリーダーが誕生していく。

豊かな自然に囲まれた創価大学のキャンパス(2019年11月)
豊かな自然に囲まれた創価大学のキャンパス(2019年11月)
「開花」の章

 1971年(昭和46年)6月、山本伸一は、牧口初代会長の生誕100年を記念する、先師の胸像の除幕式に臨む。創価の源流を開いた牧口をしのび、“先生を獄死させた権力の魔性の牙をもぎとり、民衆が喜びにあふれた社会を築いてまいります”と誓う。
 6月8日には、北海道へ。激励行の合間に、大沼で月の写真を撮影する。伸一の写真撮影は、「自然との対話」写真展に発展し、新たな民衆文化の波を起こすことになる。
 彼は、学会の発展は、そのまま地域の興隆につながらねばならないと考え、地域の人々との懇親の集いをもつことを提案。伸一が出席し、「鎌倉祭り」「三崎カーニバル」が開催される。それは地域に根差した人間文化の「開花」の姿でもあった。
 同年の夏季講習会の折、大型の台風の影響を受け、近くでキャンプを行っていたボーイスカウトの世界大会の参加者を避難させてほしいとの要請が入る。伸一の陣頭指揮で万全の支援を推進。感謝の言葉を述べるボーイスカウトの世話役に、彼は言う。「友情は人間性の証です。友情を広げ、人間と人間を結び合い、人類の幸福と平和の連帯をつくるのが、私どもの目的です」

自然との対話
北海道の大沼で、漆黒の空に輝く月天子を、池田先生がカメラに収めた(1971年6月)
北海道の大沼で、漆黒の空に輝く月天子を、池田先生がカメラに収めた(1971年6月)

 1971年(昭和46年)6月、山本伸一は北海道の大沼へ。雲の切れ間から、まばゆい光を放つ月に、シャッターを切った。
 「――夜空は、黒い闇である。大沼の湖面も天の色を写し取ったかのように、黒々としていた。しかし、やや青みを帯びた満月だけが天座に君臨し、湖面に一筋の金の帯を走らせていた。それは、大沼に浮かぶ月というより、無窮の宇宙空間を絶え間なく運行する、大きな星の写真のようにも見えた」(「開花」の章、316ページ)
 池田先生が撮影した写真作品を展示する「自然との対話」写真展は、82年(同57年)から始まり、海外では41カ国・地域、150都市で開催されている。

創価大学 開学の軌跡
第2回滝山祭の納涼盆踊り大会。創立者・池田先生が太鼓を打ち鳴らす(1973年7月15日、中央体育館<当時>で)
第2回滝山祭の納涼盆踊り大会。創立者・池田先生が太鼓を打ち鳴らす(1973年7月15日、中央体育館<当時>で)
太鼓をたたいて手の皮がむけた池田先生に、学生がばんそうこうを貼る(1973年7月15日、中央体育館<当時>で)
太鼓をたたいて手の皮がむけた池田先生に、学生がばんそうこうを貼る(1973年7月15日、中央体育館<当時>で)
水俣友の集い
池田先生が第1回「水俣友の集い」に出席(1974年1月24日、鹿児島の九州総合研修所<当時>で)。以来、「1・24」を節目として、友は前進の歩みを刻んでいる
池田先生が第1回「水俣友の集い」に出席(1974年1月24日、鹿児島の九州総合研修所<当時>で)。以来、「1・24」を節目として、友は前進の歩みを刻んでいる

 1974年(昭和49年)1月24日、山本伸一は「水俣友の集い」に出席。「水俣病」と呼ばれる公害病に負けず、生き抜いてきた同志を全力で励ました。
 「学会精神を基調として立ち上がった皆様方の、真剣な姿を拝見し、私は本当に嬉しい。今日の催しこそ、新しき水俣建設の原点となるものであると、私は確信しております」(「蘇生」の章、50ページ)