〈教学〉 12月度座談会拝読御書 高橋殿御返事 2018年12月1日

〈教学〉 12月度座談会拝読御書 高橋殿御返事 2018年12月1日

御書全集 1467ページ1行目~3行目
編年体御書 1427ページ1行目~3行目
広宣流布を支える真心に功徳輝く
信心の「志ざし」に無量の福徳
 
拝読御文

 同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは仏種をたつ命をついで弥弥強盛の敵人となる、又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か、又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし、一切衆生を利益するなればなり

本抄について

 本抄は、日蓮大聖人が、駿河国静岡県中央部)の富士方面で、門下の中心的な役割を担っていた弟子に与えられた、お手紙の一部(断簡)と考えられます。
 そこからの推定により、かつては高橋六郎入道に宛てられた御消息文とされていましたが、詳細は不明です。
 本抄の冒頭で大聖人は、謗法の者を養ってはならないことを示されます。それは、人々の成仏の種子を断つ、法華経の敵の命を永らえさせ、悪になってしまうからです。
 その上で、たとえ謗法の者であっても、命を助ければ、いずれは心を改める時が来て、正法に導くことができるとの可能性を示されます。
 どこまでも謗法を誡めることが大前提の上で、「敵人」をも救っていくとの大聖人の慈悲心からの仰せだと拝されます。
 一方で、現実に民衆救済の戦いをしている「法華の行者」に米穀を供養することは、供養した相手だけでなく、広宣流布を進め、一切衆生を利益することにつながっていきます。ゆえに、「慈悲の中の大慈悲」の働きになると述べられます。
 たとえ同じ米穀であっても、誰への供養かによって、その意味は大きく違ってくるのです。
 さらに、大聖人のもとへ使者を遣わし、供養を届けられた弟子の真心を喜ばれ、「あなたの身に釈迦仏、そして地涌の菩薩が入り替わられたのであろうか」と称賛されます。
 続いて、「その国の仏法流布は、あなたにお任せします」と、地域広布の主体者としての使命と誇りを教えられます。
 最後に、法華経を聞かせることが縁となって万人成仏の種子が相手の生命に植えられることを訴えられ、妙法を説き広めていくよう望まれています。

下種仏法

 日蓮大聖人の仏法は、万人成仏の根源の一法である南無妙法蓮華経を直ちに説き聞かせ、成仏の種を植えることができるので、下種仏法といいます。
 下種とは「種を下ろす」と読みます。「種」は仏種である南無妙法蓮華経のことです。私たちで言えば、相手の幸福を願い、仏法対話に励んでいくことが、下種の実践になります。
 下種には「聞法下種(相手の心に成仏の種子を下ろすこと。相手の信不信は問わない)」と「発心下種(下種を受けて、相手が仏法を求める心を起こすこと)」とがあります。聞法下種でも発心下種でも、相手が妙法を聞いたことに変わりはありません。
 大聖人は、「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」(御書552ページ)と仰せです。それは、たとえ相手が反発したとしても、仏種を植えたことで、後にこの縁によって必ず発心し、成仏の道に入ることができるからです。
 拝読御文で、法華経の敵であっても「終に法華経を引き入るべき故か」と仰せになっているのは、一切衆生を絶対に救うのだとの大聖人の大慈悲の現れと拝されます。
 反発した人さえも等しく成仏させていくのが大聖人の仏法です。たとえ反発している人であっても、どこまでも誠実に、妙法の素晴らしさを語っていくことが、大聖人の御精神に叶った慈悲の実践なのです。
 すぐに発心するかどうかは、相手の機根によります。すぐに発心しようが、しまいが、どちらにしても、仏法を語って聴かせれば、生命の奥底には、必ず仏種が植えられます。ゆえに、下種の実践に対する功徳は、変わらないのです。

御供養の精神

 日蓮大聖人は、供養を届けられた門下に、「仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(御書1596ページ)と、凡夫は「志ざし」によって成仏できると教えられています。
 では、「志ざし」とは、どういうことをいうのでしょうか。
 大聖人は先の御文に続く部分で、“一つしか無い衣服を法華経に供養すること”“これを供養すれば、きょうの命をつなぐことができない時に、その食物を仏に供養すること”を例として、命を捧げるにも等しい「志ざし」に、無量の福徳が輝くことを教えられているのです。
 このように、供養は信心の純真な発露であるからこそ、誰に供養するのか、相手の正邪を厳しく見極めていかなければなりません。
 拝読御文に仰せの通り、謗法への供養は、「法華経の敵」を利することになり、万人成仏の道を閉ざす悪業を積んでしまうことになるからです。
 一方で、「ひとつのかたびらなれども法華経の一切の文字の仏にたてまつるべし。この功徳は父母・祖父母・乃至無辺の衆生にも・をよぼしてん」(同1231ページ)と、法華経の行者である大聖人への供養は、計り知れない福徳となって、一家眷属を包み、そして、さらに多くの人々にまで及んでいくことを教えられています。
 また別の御書では、「あなたの真心は、法華経の題目を弘めている人に相当する。多くの人が題目を唱えるならば、その功徳が身に集まるでしょう」(同1241ページ、趣旨)とも仰せです。
 大聖人の御遺命のままに、世界広布を現実にしてきたのが創価学会です。ゆえに、それを支える学会員の福徳は、大きく広がっていくだけでなく、自身にも集まって、我が身を荘厳していくのです。

謗法厳誡

 謗法とは「誹謗正法」のことで、正法を誹謗することをいいます。その罪は、仏の身体を傷つけることよりも重い罪とされ、無間地獄に堕ちる原因となります。それは、正法を誹謗することによって、万人成仏の道を閉ざしてしまうことになるからです。
 大聖人は「謗法の者を対治する功徳に依って生死を離る可きなり」(御書68ページ)と、謗法を責める実践が仏の境涯を開くことになると仰せです。ゆえに謗法は厳しく誡めていかなければなりません。このことを「謗法厳誡」といいます。
 牧口先生が、戦時中、宗門から“神札を受けるように”と言われた時、「謗法厳誡」の精神で拒否しました。牧口先生は、その心境を、戸田先生に「一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、恐れるのである」と語られています。
 悪と戦わないことは、悪を放置することになり、結果的に悪と同じになってしまいます。悪と戦うことが善であり、三代会長を貫く学会精神です。そこにこそ大聖人の精神も流れ通うのです。
 「災難対治抄」で大聖人は、「謗法の者を治す可し若し爾らずんば無尽の祈請有りと雖も災難を留む可からざるなり」(同85ページ)と、謗法を退治しなければ、無量の祈りがあっても、災難を留めることができないと、教えられています。謗法を責めてこそ、祈りは叶うのです。

池田先生の指針から 深き一念で幸福の方向へ

 大聖人の御在世当時も、広宣流布の陣列に名前を連ねた、数々の在家の門下たちがいた。
 大聖人をお慕いする門下たちは、大聖人がいらっしゃる佐渡や身延にまで、遠く危険な道のりを歩みぬいていった。そのなかには、幼子を連れた女性もいた。かなりの年配の方もいた。
 大聖人のもとにお届けした御供養の品も、一生懸命に節約して用意したものであろう。こうした門下の“広宣流布の志”を、大聖人は心から讃嘆された。“ありがとう、本当にありがとう”“こんなところまで、よくきてくださいました”と深い深い感謝の心で包んでいかれたのである。
 (『池田大作全集』第99巻所収、第55回本部幹部会でのスピーチ)
 ◇ ◆ ◇ 
 御聖訓には、庶民の真心の信心にかなうものは、この世に何一つとしてないと説かれている。
 大聖人は、門下の女性(王日女)の真心を最大に讃嘆されて、こう言われている。
 「此の二三の鵞目は日本国を知る人の国を寄せ七宝の塔を忉利天にくみあげたらんにも・すぐるべし」(御書1263ページ)
 ――あなたの真心の二百文、三百文というお金の御供養は、日本国を治める人(権力者)が国を供養し、七つのすばらしい宝で飾られた塔を、忉利天(欲界の六つの天の二番目。地上から八万由旬の高さ)に届くほど高く組み上げて供養したよりも、すぐれています――と。これが御本仏の御心である。
 その御精神をことごとく踏みにじり、庶民の真心を足蹴にしてきたのが、日顕宗である。その罪は、あまりにも重い。(中略)
 「妙法のために」「広宣流布のために」という強く深い一念の心があれば、一切を幸福の方向へ、希望の方向へと変化させられる。
 信心を貫ききっていけば、最後には「所願満足」となることを晴ればれと確信していただきたい。(『池田大作全集』第88巻所収、中部代表者会議でのスピーチ)