〈9・8「日中国交正常化提言」50周年記念特集〉㊤ 池田提言に中国から不動の評価  2018年9月7日

〈9・8「日中国交正常化提言」50周年記念特集〉㊤ 池田提言に中国から不動の評価  2018年9月7日

周恩来総理 提言は「尊敬と感動に値する」
1974年12月5日、重病の身を押して、周恩来総理が池田先生と会見。この一期一会の出会いから、世々代々の友好の扉が開かれた(北京市内で)

 1968年(昭和43年)9月8日、池田先生は東京・日大講堂(当時)に集った1万数千人の学生を前に、歴史的な「日中国交正常化提言」を発表した。あす8日で50周年の節目を迎える。本年は日中平和友好条約締結から40周年でもあるが、冷戦下の厳しい国内外の環境の中で発せられたこの提言は、のちの国交正常化と条約締結の扉を開いた勇気と先見の発言として、歴代の国家指導者をはじめ中国各界から、不動の評価を受けている。ここでは、提言50周年を上・下2回にわたって特集し、その現代的意義を確認する。上では、提言発表の経緯と反響、周恩来総理との会見(74年12月)に至る道程を振り返るとともに、東京大学公共政策大学院の高原明生院長、甲南大学の胡金定教授に話を聞いた。

①提言の決断へ至る道

 戦後、日本政府が中国敵視政策を取り続ける中で、政界の重鎮・松村謙三氏、実業家の高碕達之助氏、作家の有吉佐和子氏ら、日中国交回復に汗を流した先達たちがいた。
 62年、松村氏、高碕氏は相次いで訪中した際、周恩来総理に、創価学会の急速な発展を好意的に伝える。
 60年代初頭から創価学会を“大衆に基盤を持つ団体”として注目していた総理は、接触を図るよう外交関係者に指示。66年7月、有吉氏の仲介によって、中国側と学会青年部との協議が実現する。
 一方、同年5月に池田先生と懇談した有吉氏は、席上、周総理からの中国招へいの伝言を伝えていた。国交正常化提言には、こうした歴史の導線があった。

②1968年9月8日学生部総会で

 なぜ提言を決断したか、なぜ発表の場として学生部総会を選んだのか――池田先生の真情は、小説『新・人間革命』第13巻「金の橋」の章に詳しく明かされている。
 68年当時は冷戦の激化と、中国国内で始まっていた文化大革命の影響で、対中国感情は冷え切っていた。
 その8年前には、日中国交回復を叫んだ社会党の浅沼委員長が刺殺される事件も起きていた。
 提言を行えば、反発はおろか、命に及ぶ危険さえ考えられる。
 しかし、池田先生は決断した。
 「私が、発言するしかない! 私は仏法者だ。人びとの幸福と世界の平和の実現は、仏法者の社会的使命である」「私の考えが正しかったかどうかは、後世の歴史が証明するはずだ」と。
 学生部総会での発表も、日中友好の大業は「世紀を超えた、長く遠い道のり」であり、「自分と同じ心で、後を受け継ぐ人がいなければ、成就はありえない」と考えたからだった。
 提言で先生は、①中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること②国連における中国の正当な地位を回復すること③経済的・文化的な交流を推進すること――の3点を強調した。

③提言の波紋反発と称賛

 “池田提言”は翌9月9日付の各紙朝刊で一斉に報道された。
 予想されたように、政府関係者から非難の声が上がり、学会本部には嫌がらせや脅迫の電話などが相次ぐ。
 一方で、日中関係に携わる人々からの反響は大きかった。
 光明日報の劉徳有記者(のちに文化部副部長)はいち早く中国に打電し、新華社発行の海外報道紙「参考消息」の9月11日付1面で大きく報道された。
 周総理は提言の内容を高く評価。「池田会長の講演内容は大変、素晴らしいものであった。尊敬と感動に値する内容だった」と語った、との証言が残されている。
 日本では、中国文学者の竹内好氏が「光りはあったのだ」「徳、孤ならず。仁人は稀であるが、天下に皆無ではない」と書いた。
 松村謙三氏は「百万の味方を得た」と語った。
 70年3月、既に87歳の松村氏と池田先生の会見が実現する。限りある命を日中関係改善にかける氏は、後事を先生に託そうとしたのである。
 創価学会分室で向き合った氏は、身を乗り出すように言った。「あなたは中国へ行くべきだ。いや、あなたのような方に行ってもらいたい。ぜひ、私と一緒に行きましょう」

④“橋渡し役”となった公明党

 池田先生は、松村氏に答えた。
 ――自分は宗教者であり、国交を回復するのは政治の次元でなければならない。私の創設した公明党に行ってもらうよう、お願いしましょう、と。
 「公明党のことも、池田会長のことも、全部、周総理にお伝えします」。そう言って、会見の9日後、松村氏は最後の訪中に旅立った。
 70年4月19日、氏は周総理と会見した。その後、氏の側近から東京に連絡があった。“池田会長の訪中を熱烈に歓迎します”との総理の伝言であった。
 翌71年6月、創設わずか7年の公明党に、周総理から、訪中を歓迎する旨の招請電報が届けられた。
 同月に訪中した党代表団は、先生の提言を踏まえて作成した「復交五原則」を発表。同原則を支持する旨も含まれた共同声明を中国側と調印する。これが後の「日中共同声明」のひな形となった。
 72年7月、公明党の第3次訪中団に対し、周総理が中国側の共同声明草案を提示。それを受けて、田中新内閣は国交正常化に向けた動きを加速する。
 同年9月29日、北京で日中共同声明が締結され、両国の国交正常化がついに実現するのである。

⑤「金の橋」を架けた初訪中

 「新しい時代の扉は、待っていては開きはしない。自らの手で、自らの果敢な行動で、勇気をもって開け放つのだ!」
 池田先生が初訪中をつづった小説『新・人間革命』第20巻「友誼の道」の章は、この一節で始まる。
 初訪中の実現は74年5月30日。国交正常化から2年後のことだった。
 まだ北京へ飛ぶ直行便はなかった。池田先生は、英国領だった香港の九竜から列車で境界にある羅湖駅まで行き、鉄橋を歩いて、深圳に中国への第一歩をしるした。「日中国交回復のため、多くの先人諸氏が尊い苦闘の汗を流した“道”を、一度は通り、その労苦を偲びたいと思っていた」
 第1次訪中の行程は約2週間。北京、西安、上海、杭州、広州等を訪問し、教育・文化交流の扉を開いた。
 李先念副総理や中日友好協会の廖承志会長らと会見。
 一方、大学や幼稚園、小学校、中学校、また工場や庶民の家庭にも足を運び、民衆と民衆を結ぶ友好の「金の橋」の構築に全力を注いでいった。
 北京での答礼宴で、池田先生は宣言した。
 「もはや言葉ではありません。私たちのこれからの行動を、見てください!」

⑥周総理と一期一会の会見

 周総理と池田先生の一期一会の会見が実現したのは、74年12月5日。第2次訪中で、北京最後の夜だった。同日午前には、既に鄧小平副総理が先生と会談しており、異例の会見は周総理の強い意向だった。
 会見場は北京の305病院。総理はがんの闘病中で、医師団の反対を押し切っての会見だった。
 「どうしてもお会いしたいと思っていました」と歩み寄る周総理。
 「池田会長は、中日両国人民の友好関係の発展はどうしても必要であるということを何度も提唱されている。そのことが、私にはとてもうれしいのです」
 この時、総理から託された世々代々の友好を、池田先生は人生をかけて果たしていく。

友好条約への歩み

◆1949年
〈10月1日〉中華人民共和国が成立

◆1962年
〈11月9日〉廖承志氏と高碕達之助氏が日中総合貿易に関する覚書に調印。LT(廖承志・高碕達之助)貿易が始まる

◆1963年
〈10月4日〉中日友好協会が発足

◆1966年
〈5月〉中国で文化大革命始まる

◆1968年
〈9月8日〉池田先生が第11回学生部総会の席上、日中国交正常化提言を発表

◆1969年
〈6月〉池田先生が小説『人間革命』第5巻「戦争と講和」の章で、中国との平和友好条約の早期締結を主張

◆1971年
〈7月2日〉公明党第1次訪中団が中日友好協会と復交五原則を盛り込んだ共同声明を調印
〈7月9日〉キッシンジャー米大統領補佐官が訪中。周恩来総理と会談
〈10月25日〉国連総会で中国の国連加盟が決定

◆1972年
〈2月21日〉ニクソン米大統領が訪中。27日に米中共同声明を発表
〈7月29日〉周総理が公明党第3次訪中団に共同声明の中国側草案を提示
〈9月29日〉北京で日中共同声明の調印式が行われ、日中国交正常化が実現

◆1974年
〈5月30日〉池田先生が初訪中
〈12月5日〉池田先生が2度目の訪中で、周総理と会見

◆1976年
〈1月8日〉周総理が死去

◆1978年
〈8月12日〉日中平和友好条約が調印

●主な参考文献
 『新・人間革命』第13巻「金の橋」、同第20巻「友誼の道」「信義の絆」、同第21巻「人間外交」、同第28巻「革心」
 『扉はふたたび開かれる――検証 日中友好創価学会』(時事通信出版局編)