〈教学随想 日蓮仏法の視座〉 老いと仏法 人生100年時代に輝く生命尊厳の哲学 2018年7月10日

〈教学随想 日蓮仏法の視座〉 老いと仏法 人生100年時代に輝く生命尊厳の哲学 2018年7月10日

男子部教学室 生命倫理委員会編
一日の命は宇宙の財にもまさる
“生きる意志”呼び起こす周囲の励まし
 

 男子部教学室内の「生命倫理委員会」では、現代医療の諸課題について学び合うとともに、仏法の視点から、さまざまな議論を重ねてきた。ここでは、男子部教学室員が「高齢社会における老い」をテーマに、自らの体験を交えつつ考察した原稿を掲載する。

 「人生100年時代」という言葉を聞くようになった。端緒となったのは、イギリスの研究者リンダ・グラットン氏らの著書『ライフ・シフト』である。
 氏は、先進国の今の子どもの半数が、100歳よりも長生きすると予測。世界有数の長寿国・日本では、2007年生まれの人の半数は107歳まで生きると推測されている。
 前例のない超高齢社会。老後の生活が長引けば、老いる本人も、支える家族も、人生をどう全うするかを深く見つめることになる。
 本稿では30代半ばの私が、祖父の晩年の姿を通して、人生最終章の生き方と、周囲の支えの在り方を、“自分事”として捉えるようになった体験を書きたい。

「胃ろう」という選択

 祖父が入院したのは、亡くなる約2年前のこと。当時89歳で、転倒による骨折が原因だった。
 高齢も重なり、病院生活は予想以上に長引いた。徐々に体は衰弱し、口から物が食べられなくなったことで、「胃ろう」による栄養摂取が始まった。
 胃ろうは延命医療の一つでもある。「でもある」と言ったのは、延命医療が「生存期間の延長のためだけに行われる医療行為」と定義されるからである。言い換えれば、同じ胃ろうでも、病気の治癒や症状の改善、QOL(クオリティー・オブ・ライフ=生活の質)の向上のために行われた場合は、延命医療にはならない。
 延命医療を巡っては、国によって、歴史も、考え方も異なる。例えばアメリカでは、1980年代には、延命医療を行わずに看取るのも医療の選択肢との考えが普及していた。一方、日本では90年代に入っても、延命医療の議論自体が“タブー”とされた。どちらの国においても、患者の「生命の尊厳」を重んじた上での価値観なのである。
 日本では2012年、日本老年医学会が、人工的な水分栄養補給を中止・差し控える判断についての指針を「立場表明」として明らかにした。
 実際に近年は、延命医療を施すかどうかを、家族で話し合うケースが増えている。また、自分で判断できなくなった場合に備えて、元気なうちに“意思表示”を作成する人も多いという。

生命へのまなざし

 祖父は長野県で生まれ育った。36歳で入会。長野の広布草創を戦い、宝の思い出を築いた。
 今、私は本紙記者として国内外で取材するが、初めて“一人旅”をしたのは、長野の祖父母の家だった。鉄道の駅で迎えてくれた祖父の笑顔を、今もよく思い出す。
 祖父の入院後も、私たちはそんな昔話を語り合った。当初は祖父の記憶も鮮明で、この頃はまだ、胃ろうは「いつか終わる」と漠然と信じていた。
 今思えば、容体の悪化が不可逆的となってからは、それは言葉通りの「延命医療」となったのだろう。
 一度始めた医療行為を、途中でやめる判断は容易ではない。本人とともに、家族の葛藤もある。だが祖父にとって、また私たち家族にとっても、胃ろうを続けるのは自然な選択であったし、疑問を抱くことはなかった。
 一方で、もし初めから延命医療と告げられたら、私自身は、どう祈り、思索するだろうか――。祖父が亡くなった後、そんなことを考えるようになった。
 まず結論を述べたい。それは、たとえどんな状態でも、私は祖父に、一秒でも長く生きてもらいたいと願っただろうということだ。
 管でつながれ、最晩年は話すこともできなかった祖父だったが、見舞いに行く私には、元気な祖父に会いに行く時と同様の喜びや楽しみがあった。首都圏に点在していた家族・親戚が、祖父の見舞いを機に顔を合わせる頻度が増え、思い出話に花が咲いた。
 その輪の中心にいた祖父は、時にうなずき、笑顔を見せていた。眠ったままの状態の時は、私たちが祖父の手を握りながら、耳元で近況を報告した。
 この時のことを振り返ると、祖父から目に見える反応の有る無しにかかわらず、祖父の生命自体に呼び掛けていたと思う。
 仏法では眼・耳・鼻・舌・身(皮膚)という五官を通して入る情報を判断する意識のさらに底流に、尊極なる生命の働きを観る。
 この視点に立てば、祖父は体全体で、また意識の深くで、私たちを感じてくれていたのだと思う。そう思うと、生きてくれているだけでうれしかった。祖父は紛れもなく、家族をつなぎ、私たちに元気を送ってくれていた。

富木尼御前への激励

 日蓮大聖人は「可延定業書」で「一日の命は、この宇宙全ての財にも、まさっている」(御書986ページ、通解)と仰せである。
 このお手紙を送られた富木尼御前は、大聖人の門下の中心であった夫の富木常忍を支える一方で、自らは病に侵されていた。その彼女に大聖人は、「一日でも長く生きていらっしゃれば、それだけ功徳も積もるでしょう」(同ページ、通解)と励まされている。
 ここで大聖人が“一日でも長く生きるのだ”と仰せになっているのは、尼御前に、病魔に打ち勝つための「生きる意志」を呼び起こそうとされたからだと拝される。ゆえにこの励ましには、ただ単に“長生きするのは素晴らしいことですよ”との、ひとごとの響きはない。
 むしろ大聖人は、医術に優れた四条金吾の治療を受けるよう御指南され、また、具体的にどう頼むのがいいのかなど、細かい点にも配慮された。そして、「ああ、惜しい命です」「お名前とお年を自分でお書きになって、そのための使いを立ててよこしなさい。日蓮から大日月天に平癒を申し上げます」(同ページ、通解)と、尼御前の病は、御自身の一大事であるかのように励ましを送られている。
 さらに大聖人は本抄で、「一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり」(同ページ)とも仰せである。私にはこの一節が、“あなたが生きる一日は、私にとってもかけがえのない一日です”との、慈愛の励ましに思えてくる。
 あなたが生きることが、私の喜び――そう寄り添ってくれる家族や周囲の存在が、病気の友をどれほど勇気づけ、“生きる意味”を見いだす支えとなるか計り知れない。

最善を尽くす生き方

 言うまでもなく仏法は、「生きて生き抜く」ための信仰である。たとえ加齢やけが、病気などで、思うように体が動かなくなったとしても、生き抜く選択の先には、かけがえのない価値が生まれる。自分にも、周囲の人たちにも。
 その上で、「長生き=幸福」と捉えることには慎重でありたい。実際には、予期せぬ形で、あるいは、若くして命を落とすこともあるからである。
 また近年は、医療の発展とともに、人生の“しまい方”の選択肢も増えている。延命医療一つを巡っても、考え方が多様化していることを認める必要もある。もちろん、その選択いかんで幸・不幸が決まるものではない。ただし、どのような生き方を選んだとしても、仏法では、限られた生に最善を尽くす生き方が、大満足の最期を約束することを説く。
 大聖人は仰せである。
 「所詮、“臨終は只今にある”と覚って信心に励み、南無妙法蓮華経と唱える人のことを、普賢菩薩勧発品第28には『この人は寿命が終われば、千もの仏が手を差し伸べ、(死後への)恐怖を起こさせたり、悪道に堕とさせたりするようなことはしない』と説かれている」(同1337ページ、通解)
 今、臨終を迎えても悔いがないという覚悟で、一瞬一瞬に生命を燃焼させる生き方(=臨終只今)は、生命を鍛え、境涯を高める。その人は、今世の生に確信と納得を与えることができる。だからこそ臨終に際しても、安詳と、霊山へ旅立っていくことができるのである(=臨終正念)。
 そして仏法の三世の生命観に照らせば、信心を貫き通した今世の生は、見事な「死」を約束し、次の「生」への晴れやかな旅立ちを決定する。
 池田先生は語っている。
 「たとえ短命であっても、『生命力』満々と生き、大いなる価値創造をして亡くなれば、その人は『長寿』だったのです。また広宣流布をして、多くの人々に偉大な『生命力』を与えたこと以上の『長寿』はないと言える」
 人の生き方の多様化や、生きた歳月の長短はあれど、妙法の使命に生き切ることが、今世の人生を飾ることに変わりはない。そう深く確信すれば、どんな人生の選択にも、価値を見いだしていける。
 病と闘う人、人生の晩年を迎えた人が、そうした生き方を貫けるよう、共に祈り、心を寄せ、励ましていく。
 それが学会家族にできる支えであり、「人生100年時代」を照らす光なのだと思う。