〈教学〉 11月度座談会拝読御書 崇峻天皇御書(三種財宝御書) 2018年10月30日

〈教学〉 11月度座談会拝読御書 崇峻天皇御書(三種財宝御書) 2018年10月30日

御書全集 1173ページ14行目~16行目
編年体御書1038ページ7行目~9行目
信頼を勝ち得る誠実な振る舞い
広布の誓願に生き抜こう
 
拝読御文

 中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、穴賢・穴賢、蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり

本抄について

 本抄は、建治3年(1277年)9月11日、日蓮大聖人が56歳の時、身延の地で認められ、鎌倉の四条金吾に与えられたお手紙です。別名を「三種財宝御書」といいます。
 金吾は、主君の江間氏を折伏したことで、主君から疎まれるようになっていきます。
 本抄を頂く直前には、桑ケ谷問答を巡る讒言を信じた主君から“法華経の信心を捨てるとの起請文(誓約書)を書かなければ、所領を没収する”と迫られ、人生最大の窮地に追い込まれていました。
 ところが主君が疫病に倒れたことで、医術の心得のある金吾が治療に当たることになり、信頼回復の好機を得ました。その報告に対する返信が本抄です。
 初めに、金吾が信心に励むことができるのも、主君の恩によるものである。ゆえに金吾が積んだ功徳は、主君にまで及んでいくと述べられます。
 さらに、周囲の激しい嫉妬にさらされ、命も危ぶまれる状況の金吾に、「内薫外護」の法理を通し、強盛な信心に諸天の加護が現れることを教え、仏法の正邪は峻厳であり、必ず明確になると述べられます。
 さらに、「短気ではならない」等と、身の処し方についても、こと細かに戒められます。
 続いて、竜の口の法難の際に、生死を共にしようとした金吾の信心を称賛。
 周囲に信頼を広げるとともに、「心の財」を積んでいくことが大事であり、人の振る舞いこそ釈尊の出世の本懐であると教えられています。

仏法即社会

 日蓮大聖人の仏法は、開かれた宗教です。
 大聖人は、「まことの・みちは世間の事法にて候」「世間の法が仏法の全体と釈せられて候」(御書1597ページ)と仰せです。世間の法を離れて仏法はなく、世間の法がそのまま仏法の全体であることを「仏法即社会」といいます。
 私たちの信心は、社会との間に壁を作り、特別な世界に閉じこもるような信仰ではありません。むしろ信仰で培った人格と振る舞いで、地域に仏縁と信頼を広げていくことが大切です。
 本抄で大聖人は、四条金吾に「よかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ」(同1173ページ)と述べられています。現実社会で実証を勝ち得ていくことは、そのまま仏法を行じていることにほかなりません。
 また、大聖人は別の御書で、「智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」(同1466ページ)とも仰せです。
 仏法の智慧は、社会から遊離したものではありません。ゆえに、妙法を持った一人一人が智者となって、家庭、地域、職場、そして政治や経済、文化などの多方面で、なくてはならない存在として光り輝いていくことが大切になります。
 今回学ぶ「崇峻天皇御書」の末尾では、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(同1174ページ)と、賢者の行動を教えられています。
 仏法の偉大さは、社会の中で、人の振る舞いとなって現れるものです。
 私たちにとっては、状況がどうあれ、自分が生活している場で、創価の誇りを胸に人間革命に挑戦し、どこまでも誠実に、信頼を広げていくことが「仏法即社会」の実践にほかならないのです。

金吾と江間氏

 四条金吾は、父子2代にわたって江間家に仕え、厚い信頼を得ていたと思われます。
 ところが、金吾が主君の江間氏を折伏したことで、主君から疎まれるようになっていきます。
 同僚たちの激しい嫉妬もあり、大難が「雨の如く」(御書1136ページ)押し寄せます。
 領地替えの沙汰が出るなど、理不尽な命令が続き、金吾は主君を訴えようとまで思い詰めます。直情的な性格の金吾に大聖人は、「大恩ある主君である」(同1150ページ、通解)、「これから一分の恩を受けなくとも、恨むべき主君ではない」(同1151ページ、通解)と、軽率な行動を起こさないよう、戒められています。
 それは、どんな不条理な仕打ちをする主君であっても、金吾が信心に励めることの根底には、主君の恩があるからです。
 一時の感情で主君を恨んだりすれば、それは不知恩となってしまいます。
 本抄で大聖人は「内薫外護」の法理を通し、強盛な信心によって、諸天の加護は厳然と現れることを教えられています。
 行き詰まった時こそ、不屈の信心で道を開くことが大切です。
 さらに別の御書では、「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(同1169ページ)と、信心に徹すれば、必ず主君の権力にも勝っていくことができると御断言です。
 大聖人の仰せの通り、誠実に振る舞った金吾は、主君の信頼を回復するだけでなく、かつての3倍の所領を賜ったのです。

3種の財

 日蓮大聖人は、「蔵の財」「身の財」「心の財」の3種の財を通し、最善の生き方を教えています。
 蔵の財は、物質的な財産のことで、具体的には、金銭や土地、広く言えば装飾品なども含まれます。
 身の財は、身に付いた財産のことで、健康や才能、身に付けた技術、地位もここに当てはまります。
 一方、心の財は、自身の生命に積んだ福運です。目に見えないかもしれませんが、誰も奪い去ったり、壊したりすることのできない最高の財です。
 本抄で大聖人は、決して蔵の財や身の財を否定しているわけではありません。しかし、蔵の財も身の財も、今世限りのものであり、移ろいやすいものです。それらを求める生き方は、相対的幸福を実感することができたとしても、“生きていること自体が楽しい”との絶対的幸福境涯の確立にはなりません。
 根本的に求めていくべき生き方は、心の財を積む人生であると教えられているのです。
 また、蔵の財も身の財も、心の財があってこそ、自他共の幸福に生かしていくことができます。
 私たちで言えば、「広宣流布のため」と一念を定めることで、「自分だけの幸福」から、「自他共の幸福」へと、人生と境涯を大きく開き、幸福の正道を歩むことができるのです。
 広布の誓願に生き抜くことが、心の財を積む最上の道であり、何があっても揺るぎない絶対的幸福境涯を確立する実践なのです。

池田先生の指針から 「心」こそ人生最高の財宝

 「主の御ため」「仏法の御ため」「世間の心ね」とは、今日で言えば、“仕事のため”“広宣流布のため”“社会生活のため”という意味で、信仰と生活の全般を指すと言えます。
 法性を根本とするがゆえに何があっても善に向かう心は、このすべての場合に通じて、価値創造の原動力となる。
 決して独善的な振る舞いではなく、人々から称賛され、信頼されるようになっていきなさいということです。周囲の評価が定着してこそ本物です。
 「善に向かう心」は、必ず振る舞いや生き方に現れ、そして必ず世間の人々にも理解されていくのです。(中略)
 創価学会は「信心即生活」「社会即仏法」の正道を歩んでいるから、世間から信頼されている。生活と社会から遊離すれば、宗教は必ず独善となっていく。
 大聖人が、四条金吾に一貫して「賢人たれ」「社会や地域の勝利者たれ」と示されているのも、まったく同じ意義だと拝される。(『池田大作全集』第33巻「御書の世界」)
    ◇ ◆ ◇
 「心の財第一なり」(御書1173ページ)
 「心の財をつませ給うべし」(同ページ)
 この一節は、日蓮大聖人が、苦境のさなかにいる門下・四条金吾に贈られた、勝利への最大の指針です。
 「心」こそ、人生の最高の「財宝」です。それは、「心」の中に、偉大な可能性と無上の尊極性が具わっているからです。
 「心」は、いくらでも広がります。また、いくらでも深められます。そして、いくらでも強くなります。(中略)
 本抄(=「崇峻天皇御書」)をいただく2カ月前、四条金吾は主君・江間氏からの所領没収という最大の危機に直面し、そのときに金吾は、所領を捨てても法華経の信心を貫くとの決意に立ちました。それを受けて、大聖人が御指導された内容が、「いかなる乞食になろうとも絶対に法華経に傷をつけてはならない」(同1163ページ、通解)との仰せでした。
 実は、この御指導こそ、所領(蔵の財)よりも、武士としての立場(身の財)よりも、信心という「心の財」こそ第一――一番大切であるとの信仰者の根本規範を教えられているのです。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第4巻)

参考文献

 ○…『池田大作全集』第33巻「御書の世界」(聖教新聞社
 ○…『勝利の経典「御書」に学ぶ』第4巻(同)