教学〉 6月度座談会拝読御書 呵責謗法滅罪抄 2019年6月4日

〈教学〉 6月度座談会拝読御書 呵責謗法滅罪抄 2019年6月4日

御書全集 1132ページ10行目~11行目
編年体御書 599ページ5行目~6行目
強盛なる大信力・大行力で勝て
師弟一体の祈りで不可能を可能に!
 
拝読御文

 何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり

本抄について

 本抄は文永10年(1273年)、日蓮大聖人が流罪地の佐渡から、鎌倉の四条金吾に送られたお手紙であると考えられています。
 当時、鎌倉の門下たちは、幕府から激しい迫害を受けていました。そうした大変な状況にあって、門下が亡き母の追善のために、ご供養を届けられたことへの御礼です。
 冒頭、大聖人は法華経のゆえに難に遭うことを「心ばかりは悦び入って候いき」(御書1125ページ)と、大確信を示されます。さらに、法華経弘通のゆえに大難を受けるのだから、無量劫にわたって積み重ねた重罪があったとしても、それを一生の内に消すことができ、所願満足の人生を歩めるとの宿命転換の原理を教えられます。
 続いて、“女性門下たちが、大聖人の弟子となったことを悔いているのではないか”と心配していたが、強盛な信心を貫いていると聞き、感涙が抑えられないとつづられます。
 釈尊が「妙法蓮華経の五字」を、上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩に託されたのは、正法・像法ではなく、末法の弘通のためであることを示されます。
 さらに、数々の災難は妙法流布の瑞相であり、大聖人こそ「一切衆生の慈悲の父母」(同1131ページ)であり、その大聖人を迫害することは、非道であると断言されます。
 最後に、鎌倉の人々より百千万億倍も大聖人を憎んでいる佐渡の地にあって、今日まで命を永らえてきたのは、門下のご供養のおかげであり、法華経の文字が弟子の身に入り替わって助けてくださったのであろうかと述べられます。
 そして、どのような乱世であっても、門下の一人一人を法華経・諸天善神が助けるよう、強盛に祈っていると仰せになり、本抄を結ばれています。

ありがたい師匠

 「世の乱れ」と仰せの通り、本抄を著される前年には「自界叛逆難」が、北条一門の内乱(二月騒動)として現実となるなど、世情は騒然としていました。
 権力による非道な弾圧は、日蓮大聖人だけでなく、門下にも及びます。
 その苦境を知られた大聖人は、御自身が佐渡流罪という大難の渦中にあって、“諸天善神よ、弟子たちを守れ!”と、強盛に祈られたのです。
 大聖人の大慈悲と、苦難に立ち向かう勇気に、弟子たちも信心に奮い立ち、師弟一体の祈りを開始したことでしょう。
 仏法の精神は、この師弟の麗しい人間ドラマに如実に表れています。
 弟子の戦いを、全部分かってくださっている師匠がいる。
 乗り越えられる、勝ち越えられると信じ、温かく励まし、祈ってくださっている師匠がいる。
 弟子の幸福と勝利を願う師匠の存在が、どれほどありがたいことでしょうか。
 この真心を感じた弟子が、報恩の誓いを胸に、師弟一体で祈るからこそ、一切の障魔を勝ち越えていくことができるのです。
 師弟に生き抜く人生に行き詰まりはありません。
 師弟の精神によって、一人一人の生命の底力を発揮させていくことができるのです。
 池田先生は教えられています。
 「師弟が力を合わせて祈る時、広宣流布への大きなうねりが巻き起こります。仏勅の使命のわが地域に、共々に創価の師弟の勝利劇を綴っていこうではありませんか!」

叶うまで貫く

 日蓮大聖人は、佐渡に捕らわれの身であり、現実に門下を助けようと思っても、できないことです。
 それでも大聖人は“断じて門下を守るのだ!”との、確信の祈りを貫かれます。
 その祈りは、決して何かにすがるような、弱々しい祈りではありません。
 では、本抄で仰せの「強盛に申す」とは、どのような祈りでしょうか?
 “濡れた木をこすって火をいだすような”“カラカラに乾いた土から水を得るような”思いで祈っていくことだと仰せです。
 普通に考えれば、どちらも不可能なことに思えます。では、不可能だといって、諦めてしまっていいのでしょうか。
 諦めてしまえば、その時点で、可能性はゼロになってしまいます。
 たとえ濡れた木でも、粘り強くこすり合わせていけば、その熱で乾き、火がつくこともあるでしょう。
 カラカラに乾いた土地であっても、掘り続けていけば、水が湧いてくることもあります。
 不可能を可能にする祈りの出発点は、不可能と思ってしまう自身の心を打ち破るところにあるのです。
 大事なことは、小さな自身の境涯で、できないと決め付けずに、不屈の信念で、叶うまで祈り続けることです。
 妙法は、宇宙と生命を貫く法です。自身の一念の変革は、かならず大宇宙へと波動を起こし、不可能を可能にしていけるのです。自身の生命を揺さぶる強盛な祈りが大切なのです。

十羅刹の守り

 日蓮大聖人は門下に、「法華経・十羅刹・助け給へ」と、強盛に祈っていると仰せです。
 「法華経」とは「御本尊」のことであり、「十羅刹」とは、法華経の陀羅尼品第26に登場する10人の羅刹女(鬼女)のことです。
 十羅刹女は、法華経の会座で、諸天善神として正法を持つ人を守る誓いを立てます。
 “法華経を読誦し受持する行者を守り、思い苦しんでいることを取り除きたいのです。もし、行者の短所を探して、付け込もうとしても、そうはさせません”
 “私の頭の上に上ることはあっても、法師を悩ますことはさせません。夢の中であってもさせません”
 “法華経の行者を悩まし、乱れさせれば、その者の頭は七つに割れるでしょう”
 法華経には、この十羅刹だけでなく、さまざまな諸天善神も登場します。
 妙法を受持し、広宣流布に励む人は、その信心によって必ず諸天に守られていくのです。守られるといっても、その力は、自分自身の信心の厚薄によることを忘れてはなりません。
 十羅刹女は、もともとは悪鬼です。しかし、法華経によって、広宣流布の行者を守る善鬼に変えていけます。一切を味方に変えていくことができるのです。
 諸天をも揺り動かす確信の祈りの大切さを、大聖人は、“弟子を必ず守る”“いかなる難事があっても、必ず成就する”との、自ら門下を思い、祈る御心情を通して、教えてくださっているのです。 

池田先生の指針から/悪鬼・魔民も強い味方に

 あの“まさかが実現”の大阪の戦いで、関西の宝友と心肝に染めた御聖訓に「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(御書1132ページ)とあります。
 御本仏のこの御一念に直結し、我らは、いかなる災難にも、いかなる試練にも、わが友を一人一人護りに護り、強盛なる大信力・大行力で無窮の大仏力・大法力を湧現しながら、断固として不可能を可能にしていくのであります。(本紙5月4日付、本部幹部会へのメッセージ)
 ◇ ◆ ◇ 
 私たちが拝する御本尊は、十界互具の大曼荼羅であられる。御本尊には、十界の衆生代表が納まり、南無妙法蓮華経の光に照らされています
 御本尊も十界、私たちの生命も十界です。そして、社会も十界の生命で成り立っている。
 御本尊に題目を唱えると、三世十方の仏菩薩が、私たちと同じく合掌します。また、全宇宙の無数の諸天善神が、絶対に従います。十界の生命を揺り動かすのですから、悪鬼・魔民さえも強い味方となって、妙法を護り広げる働きをすることは間違いないのです。(『御書と師弟』第2巻「題目の大音」)
 ◇ ◆ ◇ 
 戸田先生はよく、佐渡流罪の折の大聖人の御心を偲ばれておりました。「必ず門下を勝たせなければならない。一人も残らず弟子を幸福にしなければならない」――この炎のように燃え立つ御心であられたと拝察されていたのです。
 師匠の大恩は、弟子たちの想像も及びません。
 「日蓮が一門」には、御本仏の慈悲と正義の大生命が、すみずみにまで漲っている。その和合僧団そのものが、主師親の三徳を具えた御本仏の人法一箇の大生命なのです。
 広宣流布を実現しゆく「日蓮が一門」――その正統中の正統こそが、学会であります。(『御書と師弟』第2巻「日蓮が一門(上)」)

参考文献

 ○…『勝利の経典「御書」に学ぶ』第22巻(聖教新聞社刊)