ロートブラット博士 世界平和の碑は希望の砦 2019年4月25日

世界平和の碑は希望の砦 2019年4月25日

 
核兵器廃絶と戦争の根絶に心血を注いだパグウォッシュ会議名誉会長のロートブラット博士を、沖縄研修道場で歓迎する池田先生(2000年2月)。その語らいは対談集『地球平和への探究』にまとめられ、広く読み継がれている
 

 恒久平和への願いが込められた「世界平和の碑」(恩納村の沖縄研修道場内)には、これまで、国内はもとより世界各国の指導者・学識者が訪れている。ここでは、来訪した海外の識者の言葉と、沖縄青年部・未来部が取り組んでいる活動の模様を紹介する。

世界各国の識者が来訪

パラオ共和国 レメンゲサウ大統領 「人類の悲劇を後世に伝え 平和の尊さを訴える建物」
●核時代平和財団 クリーガー会長 「正しいと確信することを貫く勇気を与えてくれる」
シドニー平和財団 リース前理事長 「ここは人間が平和を創造できるという“象徴の地”」
スウェーデンの平和学者 エーベリ博士 「世界中に存在する基地をこのような平和の基地に」

 池田先生の沖縄研修道場の訪問は10度。ここで、ノーベル平和賞受賞者のロートブラット博士をはじめ平和の指導者らと語らいを重ね、沖縄から世界へ、生命尊厳と不戦のメッセージを発信してきた。
 池田先生との会談の折、核時代平和財団のクリーガー会長は語った。“多くの反対の中、池田先生の提案で、ミサイルの発射台を残して、「世界平和の碑」にされたとうかがいました。その行動は、正しいと確信することは、自分が一人であっても、たとえ多くの反対があっても、立ち向かっていくべきであるとの指針と勇気を与えてくれます”
 碑の除幕以来、オーストラリア・シドニー平和財団のリース前理事長やスウェーデンの平和学者・エーベリ博士ら100組以上の各国の識者が来訪している。
 パラオ共和国のレメンゲサウ大統領は、“パラオも大戦中、激戦を経験しました。かつての戦争の象徴が、戦争の悲惨さを伝え、平和の尊さを訴える創造的な建物へと生まれ変わったことを、私は心からたたえたいのです”と共感を寄せた。
 かつての核ミサイルの発射台は今、“希望の砦”として厳と立つ。明るい未来を見つめて、平和を希求する友を、きょうも迎える。

師の思想と行動を弟子が継承 沖縄青年部・未来部の取り組み

●戦争体験の聞き取り

 “後世のため、代々に伝えるために、お父さんやお母さんのためにも、戦争反対のためにも、事実の記録を、今から少しずつ聞いてまとめてみてはどうか”
 1974年2月、沖縄を訪れた池田先生は、未来部の代表に沖縄戦の歴史を語りつつ、こう提案した。
 以来、沖縄では、青年部・未来部による戦争体験の聞き取り、出版を続けている。
 本年も、2月から今月にかけて未来部員が県内各地で聞き取りを実施。3月23日には、比嘉宗徳さん(84歳)の体験を宮里徳人さん(高校2年)、安里杏珠さん(中学3年)、岩﨑将太さん(中学2年)が聞いた――。
 ◇◆◇ 
 1934年、那覇市で生まれた比嘉さん。
 44年10月10日の「10・10空襲」で母の故郷である本部町伊豆味へ避難したが、戦闘が激化し、程なく那覇に戻った。
 焼け残った木材を屋根代わりに墓石に立て掛け、墓穴を防空壕として生活する日々が続いた。
 ある日、米軍の上陸に備えて逃げるよう言われ、家族と共に内陸に向かった。
 銃弾を避けるため、地面を這うようにして移動した。首里を越えて現在の南城市の辺りまで来た所で逃げ切れなくなり、隠れていた時に近くに爆弾が落ちた。
 比嘉さんは一命を取り留めたものの、家族の姿はどこを探しても見つからなかった。
 その後も爆撃は絶えず、サトウキビ畑に隠れていると、地面を揺らして米軍の戦車がやって来た。
 日本語で投降を呼び掛ける声が聞こえたが、「捕まったら殺されると教え込まれているから、絶対に出ていかなかった」。すると間もなく、火炎放射器で周囲が燃やされた。
 なんとか逃げ出し、近くの濠の中へ。暗い濠の中では、精神を病んでしまう人もいた。友軍(日本軍)が逃げ出そうとする人を撃ち殺すこともあった。ヘビやムカデを食べ、尿を飲んで渇きを癒やした。亡くなった人のポケットをあさって食べ物を得た――まさに、“地獄”だった。
 しばらくして、比嘉さんは濠を出て、アメリカ兵の車に積まれたドラム缶にもぐりこんだ。車が途中で止まった隙に抜け出し、県北部に向かった。
 名護を目指したが、たどり着けず、途中の宜野座で農家にもぐりこんだ。空腹に耐えきれずに、イモを盗み食いしていたところを家の主人に捕まった。
 だが、その主人が比嘉さんを養ってくれることになり、そこで終戦を迎えた。

●語らいの一場面から

 〈宮里さん〉
 私の曽祖父も戦争で亡くなりました。いかに戦争が悲惨な出来事でも、受け身で聞いていただけでは、いずれ忘れてしまう。自分の頭で考えていくことが大事だと感じました。

 〈安里さん〉
 うちの家族も戦争のことは話したくないと思うけど、戦争を二度と起こさないために、聞いてみようと思いました。

 〈岩﨑さん〉
 “今の時代に戦争が起きるとは思えない”というのが正直な感覚です。でも、私たちが住む沖縄でどういう出来事があったのかということは知っておかないといけないし、今回聞いたようなことは、もう絶対にあってはならないと思いました。

●体験を聞いて――

 宮里さん 逃げていた時、怖いという思いはなかったんですか。

 比嘉さん なかったね。魂が死んでしまっていたからかね。感情がなかった。
 生きていくために、何でも食べたよ。カエルが一番のごちそうだったね。悪さもした。
 そういう経験をしたからこそ、学会に入会してからは真面目に信心した。三代会長が指導されていることを素直に実践することが、何より大切だよ。

 安里さん 親も家族もいなくなって、友軍からもひどい仕打ちを受けて……生きる支えになったのは何だったんですか。

 比嘉さん 分からない。説明できない。ただ生きているというだけだったね。墓穴の中から出られない生活を、1カ月でも経験してごらん。想像できないでしょ。

 岩﨑さん 比嘉さんにとって、戦争とは何ですか。

 比嘉さん 目の前で子どもや人がたくさん死んでいる。でもそれを見ても、何も感じない。「あ、死んでる」というだけ。これが戦争さ。池田先生が言われているように、戦争ほど残酷なものはない。本当にその通りだと思う。
 戦争は、何があっても反対です。これからは皆さん方の時代だから、何があっても戦争は絶対にいけないということを前提にして進んでいってほしい。それが私の願いです。